政府発表「談話」とは何か

そもそも政府によって発表される歴史認識問題に関わる「談話」とは何であり、どうしてそれは発表されなければならないのだろうか。
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Japanese Prime Minister Tomiichi Murayama jots down notes as he awaits the result of no-confidance vote at the Lower House plenary session in Tokyo Tuesday, June 13 1995. Murayama received the embarrassment by the opposition's non-confidence motion on the ave of his departure for the G7 summit but the motion was rejected. At left is Foraign Minister Yohei Kono. (AP Photo)
ASSOCIATED PRESS

2014年12月の衆議院選挙における与党の安定多数再確保を受けた2015年初頭。歴史認識問題を巡っても、新たな動きが見られるようになっている。第2次世界大戦終戦から70年、日韓基本条約締結からは50年という節目に当たるこの年において、その最大の焦点となると見られているのは、8月15日の終戦記念日とみられている歴史認識に関わる政府の新談話発表への動きである。事実、安倍総理は総選挙直後から新談話発表に向けての強い意志を明らかにし、1月5日の新年記者会見においても、この意志を再確認することとなっている。

しかしながら、ここで一つ素朴な疑問が浮かぶこととなる。そもそも政府によって発表される歴史認識問題に関わる「談話」とは何であり、どうしてそれは発表されなければならないのだろうか。ここではこの問題について、過去の様々な談話について振り返りつつ簡単にまとめてみることにしよう。

最初にそもそも「政府発表談話」とは何か、ということについて考えてみよう。まず明らかなことは、これが基本的には、行政府、より具体的にはその時点での内閣や個々の国務大臣の見解を表明したものに過ぎない、ということである。言い換えるなら、今日まで出されている政府「談話」のほとんどは、国会の審議を経ていないのみならず、それ自身何らかの法律的根拠を有しているものでもない。つまり、法律的根拠を有していない以上、「談話」それ自身には何らの強制力も拘束力も存在しない。例えば、歴史認識問題に関わる談話として、村山談話と並んで取り上げられる河野談話は、政治的にはともかく、少なくとも法律的には、当時官房長官の職にあった河野の長官としての見解を表明したもの以上の意味を有していない。

もっともそのことは如何なる「談話」に如何なる拘束力も存在しない、ということを意味しない。例えば河野談話とは異なり、村山談話は閣議決定を経て出されており、「談話」そのものではなく、この閣議決定が一定の意味を持つからである。即ち、官房長官の個人的な意思表明に過ぎない河野談話とは異なり、村山談話は公式な内閣の意思の表明である、ということになる。閣議決定については、従来からその効力が「原則的にその後の内閣にも及ぶ」とされているから、当該内閣が交代した後も一定の影響力を持っている。しかしながら、そのことは当該閣議決定を、その後の内閣が取り消したり、変更したりできないことは意味しない。閣議決定が「原則的にその後の内閣に及ぶ」というのは、何らの別途の決定を行わない限り、過去の意思決定が生き続ける、ということ以上の意味を有していない。

さらに重要なのは、こうして過去の閣議決定により拘束されるのは内閣のみであり、その効力は他には及ばないことである。言い換えるなら、どのような「談話」が出されようと、その「談話」自身には内閣の外にある人々の議論を左右する効果は存在しない。だからこそ、村山談話のような閣議決定を伴う「談話」であっても、それが社会における歴史認識を巡る議論に与える直接的な影響は極めて限られたものになる。

結局、内閣あるいは一国務大臣の意思表明にしか過ぎない「談話」には、内閣の外にある社会に対する如何なる拘束力も存在しない。にもかかわらず、その「談話」が意味を持つとしたら、その可能性は二つしかない。一つは「談話」を発した人物や内閣などが、独自の威信を有する場合である。この場合、「談話」はそれ自身によってではなく、影響力を持つ個人や内閣の力によって、社会に影響力を与えることになる。二つ目は、「談話」が出される過程で何らかの国民的合意が形成される場合である。この場合には、「談話」その言葉自身が力を持つのではなく、「形成された国民的意思」であるからこそ、意味を持つことになる。

とはいえ、実際には「談話」がこのような経緯により影響力を保つことも容易ではない。個人や内閣の威信は一時的なものに過ぎず、当然いつかは「賞味期限切れ」の時がやってくる。「談話」の影響力が特定の個人や内閣に依存したものであれば、その影響力もまた、その個人や内閣と共に終焉することになる。

これに対して、「談話」が形成される中で世論の合意が形成され、結果として、「談話」のメッセージがその後も生き続ける、という方向性は、より現実味があるように見える。しかしながら、実際の政治においてはこの方向性にも大きな限界が存在する。何故なら、ほとんどの「談話」は終戦何年といった「区切り」の段階で出されることを目的としており、それ故この「区切り」が〆切の効果を果たすことになるからである。〆切の存在は必然的に議論の生煮え状態をもたらすこととなり、「談話」とは異なる歴史認識を有する人々の不満とそれによる様々な「不規則発言」をもたらすことになる。

例えば、この点については、拙著『日韓歴史認識問題とは何か』でも取り上げた、村山談話の例がわかりやすい。周知のように村山談話とは、1995年時の総理大臣であった村山富市が終戦50年を記念して出した歴史認識に関わる談話である。今日でこそ一定の評価を得ているこの「談話」であるが、実際には1995年を前後する日韓、あるいは日中の歴史認識を巡る状況は散々であった。

そしてその原因は明らかであった。第一の原因は村山の強い個人的意気込みにもかかわらず、村山と彼が党首を務める社会党の政治的影響力が、極めて限られたものだったことである。当時の村山内閣は自民、社会、さきがけの3党連立政権であり、その中で総理である村山は、第2党である社会党の党首にしか過ぎなかった。当然のことながら、内閣の中での村山の地位も極めて弱く、彼は与党3党の国会議員はもちろん、自らの内閣構成員たちに対してさえ、自らの歴史認識を満足に共有させることができなかった。

第二の原因は、にもかかわらず、村山が「談話」とその前段階である、いわゆる「終戦50年決議」、正式名称「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」、を急いだことであった。このような村山の姿勢に対して、与党、とりわけ第1党である自民党内部では強い反発が存在し、結果として多くの有力政治家たちが、村山のそれとは全く異なる歴史認識を伴う発言を行った。当然のことながら、このような日本の、それも与党有力政治家たちの発言は海外メディアや政府の注目する所となり、結果、日本と周辺諸国との関係は急速に悪化した。とりわけ日韓の間では、この過程で様々な政治勢力間の歴史認識の綱引きの中に自ら置かれることとなった村山が、「韓国併合は合法である」旨の発言を行ったことにより、韓国政府、世論の日本政府への感情は急速に悪化、ソウル市内では村山を模した人形が公然と「火あぶり」にかけられる事態にまで発展した。中韓首脳会談において中国の江沢民主席に対し金泳三大統領が、スラング混じりの韓国語で「日本の性根を叩き直してやる」と息巻いたのもこの直後のことである。

当時の状況を考える上で重要なのは、このような村山談話を巡る混乱の中で、歴史認識問題の解決に関わる幾つかの重要なオプションが失われていったことだった。その中でも最も重要だったのは、当初は韓国政府も明確な賛意を表していた、従軍慰安婦問題に対する、「アジア女性基金」による解決であったろう。村山談話を巡る混乱とその中における歴史認識問題の噴出により、韓国政府は当初は表明していた「アジア女性基金」への協力を、拒否するようになったからである。周知のように、この「アジア女性基金」型の解決法案の消滅は、今日に至るまの日韓間における従軍慰安婦問題の解決を極端に困難なものとならしめている。

一見極めて「善意」に見える「談話」がその後の議論をむしろ大きく混乱させていったことについては、河野談話も同じであった。既に述べたように、そもそも河野談話は閣議決定さえ経ていないものであり、さらに重要なことは、1993年8月4日、前月に行われた総選挙後の主導権争いに自民党が敗れ、河野が官房長官を務めていた宮沢内閣が退陣することが決定した段階で出されたものであったことだった。当然のことながらそこには何らの法的拘束力は存在せず、「談話」を出した直後に野に下った自民党総裁・河野洋平は、この「談話」を守るべき政治的役割を果たすこともできなかった。他方、自民党内では、宮沢=河野ラインによる独断に近い決定に対する反発が生まれ、その影響は今日まで色濃く残ることとなった。日韓間においても、河野談話の直後から韓国の元慰安婦支援団体などは、これを「賠償責任をうやむやにするものだ」と厳しく非難することとなり、韓国内における従軍慰安婦問題を巡る状況を、むしろ複雑化する効果を果たすこととなった。

これらのよく知られた「談話」との対比で興味深いのは、2010年、韓国併合から100年を期して行われた菅直人総理の「談話」、いわゆる菅談話の例であったかもしれない。同年8月10日に出されたこの談話は、先立つ村山談話や河野談話とは異なり、日韓間の大きな対立を生み出さなかったからである。しかしながら、その原因は、菅や民主党が大きな影響力を有していたからでも、この「談話」が作られる中で日本国内において、「談話」に沿った形での韓国併合に関わる国民的合意が形成されたからでもなかったことは、その後の民主党政権や日韓関係の行方を見れば明らかである。そもそもこの菅談話は、わずか5年も経ていない今日においてさえ、既にほぼ「忘れられた談話」になっている。このような「忘れられた談話」である菅談話が、複雑な日韓関係に関わる歴史認識問題について、大きな影響を有したとは到底思えない。

それでは菅談話はどうして大きな問題を引き起こさなかったのだろうか。結論から言うなら、当時依然として大きな支持率を誇っていた韓国の李明博政権が、この談話を争点化しない、明確な政治的決断を下したからである。菅談話が出されてからわずか5日後の2010年8月15日、植民地支配からの解放を祝う「光復節」の式典での演説において、李明博は大方の予想を裏切って、日韓関係についての言及を最小限に留め、演説の最重要部分を北朝鮮との間の統一問題に割くこととなった。こうして李明博は、菅談話が持つ日韓関係へのマイナスのインパクトを、上手く南北関係にすり替えて回避したわけである。つまり、菅談話を救ったのは、日本政府の努力ではなく、韓国政府の努力だった、ということになる。

さて、こうして見た時、「談話」、とりわけ歴史認識にまつわる「談話」が、我々の想像以上に、複雑で厄介な存在であることがわかる。そもそも「談話」は如何なる強制力を持つものでもないし、にもかかわらず、これを巡る論争を引き起こすことにより、わが国にまつわる歴史認識問題に対する内外の関心を不必要に掻き立てる効果を持っている。そしてここで忘れてはならないことが一つある。第2次世界大戦の敗戦国であり、また自ら中国やアメリカなどに対する戦争を開始した日本にとって、これらの過去にまつわる歴史認識問題の活性化が、国際社会における日本の印象について、マイナスの影響力を強く持っていることである。すなわち、過去の問題を取り上げることは、国際社会に対して過去の日本が持つマイナスのイメージを思い起こさせる効果を有しており、少なくとも基本的には、プラスの効果を果たすことはない、という問題である。

にもかかわらず、今の政府は新談話の発表に対して強い意思を有しているように見える。しかしながら、この戦後70年という不十分な「区切り」において、わざわざ政府が歴史認識問題に関わる本格的な談話を出す積極的な意味は果たしてどこにあるのだろうか。そして、例えば村山政権時のような、新「談話」と齟齬するような政府、与党周辺の議論の活性化と、それに伴う歴史認識を巡る混乱した議論、その結果的としての、我が国のイメージ悪化を、如何にして食い止めることができるのだろうか。日韓、日中関係が悪化した今日においては、菅談話に際してのような韓国あるいは中国側からの協力を期待することも困難である。

忘れてはならないことは、「談話」はそれ自身が目的でもなければ、ゴールでもないと言うことだ。政治や外交が「国益」を実現するためのものである以上、最低限、「談話」の発表がいかなる「国益」の実現を目指すものであるのかが明示される必要がある。そう思うのは筆者だけだろうか。