エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(5) 最終回

エフゲニー・モロゾフ氏の「すべてを解決するには、ここをクリックしてください -テクノロジー、解決主義、存在しない問題を解決しようとする欲望」から、抜粋を紹介してきた。今回が最終回となる。「私たちの敵は、テクノロジーの世界に住む、ロマンチックで革命的な問題解決者だ」という。
|

 エフゲニー・モロゾフ氏の「すべてを解決するには、ここをクリックしてください -テクノロジー、解決主義、存在しない問題を解決しようとする欲望」から、抜粋を紹介してきた。今回が最終回となる。「私たちの敵は、テクノロジーの世界に住む、ロマンチックで革命的な問題解決者だ」という。

***

第8章 スーパーヒューマンの状態

 マイクロソフトのエンジニア、ゴードン・ベルは1990年代末から自分についての記録をとり出した。首につけたカメラで視覚に入ったものを20秒ごとに撮影する。ほかにも、メール、写真、メモなどを記録する。

 自分の行為を記録することをライフ・ブロギングという。

 プルーストにとって、現実を描写するための鍵はデータを集めることではなく、想像力を使って、私たちの感覚を記憶と結びつけることだった。

 再生できないものを再生できるようにしたら(ライフブロギング、セルフトラッキングなど)、ノスタルジアの体験は崩れてしまう。

 コンピューターのメモリーと人間のメモリー(記憶)は違うのだ。人間は、過去の出来事の一部を選択して覚えている。旅行のすべての瞬間の録画対3枚の印象的な写真のように違う。コンピューターの「保存(リテンション)」が思い出すことを意味しないのと同様に、「削除」は忘れることを意味しない。

 セルフトラッキングにはもうひとつの動きがある。

 アイフォーン、アイパッド、キンドル、グーグルのメガネは何を読んでいるかを追跡する。将来は目の動きも追跡される。利用者について、情報が集まるーーどこにどれだけ目をおいたか、クリックしたかがわかる。これを数値化する動きもある。

 新聞やテレビは、グーグルのメガネや電子読書端末を使えば、それぞれの利用者に(さらに)あわせた情報を出せる。

 セレンディピティ(別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる)を入れたフィルタリングがデジタル技術で実現した。これによって、利用者がまだ消費していないが、消費するべきものを推奨できる。うまく使えば、消費者についての情報をもっと取得できる。

 グーグルのシュミットは、私たちがポスト世界主義の時代に生きている、という。「世界のどこでも人々は同じだ」。

 Facebookのザッカーバーグは、世界中の人をつなぐことが問題を解決する鍵だという。中東での憎悪は「つながっていない、コミュニケーションがない、同情心、理解がないこと」が原因という。FBでつながれば問題が消えるのだ、と。しかし、これはエセ人道主義ではないか。

 新しいテクノロジーの出現で「人間同士の理解を振興するだろう」とする言説は、過去にもあった。しかし、コミュニケーションの速度が高まったからといって、理解度が進むとは限らないのだが。

 私たちがシリアの問題に関心をもつのは中東の平和や人間の運命について関心を持つからであって、グーグルやFacebookがそうさせたからではないようにしたい。

 2011年7月から、グーグルニュースはたくさんニュースを読んだ人にバッジをあげるサービスを開始した。ニュースを読む行為をゲーム化するのは楽しいとしても、結局は企業にもっと情報を出すことになっている。

 「すべてがゲーム化する。政府もそうなる」という政治家がいるが、政府は企業ではなく、市民は消費者ではないという考えがゲーム化信奉者にはみあたらない。

 例えば、ポイントを得るために投票所に行くことに対し、私たちの多くは抵抗感を持つ。ゲームのインセンティブは市民性からその意味を取り去ってしまう。正しいことをさせるのではなく、正しい理由で行動を起こすようにするべきだ。経済の理論のみで人間行動の複雑さを説明できない。

第9章 スマートなメガネ、おろかな人間

 米サンタモニカのある駐車場にはスマートメーターが導入されている。車の滞在時間をセンサーで察知する。車が駐車場所を離れるとメーターを自動計算し、時間を過ぎても出ない場合、一定時間を超えたら、支払いを受け付けないようにする。違反者が出ないように、機械的にパーキングの規則を守るシステムを作った。運転者は頭を使う必要がない。しかし、選択があったほうが、交通混雑を避けられるのではないか?

 テクノロジーで問題を解決するやり方を拒否する必要はない。しかし、もっとオープンにし、選択肢を残すほうが良いと思う。

 サンタモニカの駐車場の仕組みを設計するのに、「正しい」方法はない。いかにも正しい方法があるかのアプローチの仕方はやめるべきだ。

 セルフトラッキングやゲーム化で私たちの生活が不快になったというのではない。生活の意味がやや減り、人間の要求や奇行にはより合わなくなったと思う。

 すべての制約を自由を縛るものと考えるのがコンピューター科学者やテクノロジー設計者たちだ。しかし、私たちは、プライバシーの保護についての制約があるからこそ、個人性を維持してきた。

 クーポンの代わりにプライバシーを屈服させている可能性がある。その結果どうなるか、私たちには十分に見えない。

 自動化されたプロファイリングやデータマイニング技術は、私たちの行動を予測する知識を持つ。私たちが訪れるウェブサイトや受け取る広告をカスタマイズする。

 自分の船の指揮官であることが人間であることだが、オンラインのプロファイリングはこの点で問題になろう。

 例えば、ベジタリアンになろうとして情報をネット上で探したとしよう。情報が売られて、サイト上には肉についての広告が増えることがあるかもしれない。ベジタリアンになりたいという気持ちと、冷蔵庫になぜ無料の肉が入っているのか(広告を見て、購入した)を関連付けられないかもしれない。

 何かがあなたの視覚を妨げていて、それをあなたが気づかないとしたら、自分に自治権があるのかを問うときだ。

 テクノロジーを否定しない。人間の状況を向上させるために使える。しかし、コンピューターの専門家、設計者、ソーシャルエンジニアは何が私たちを人間にするのかを考えてほしい。人間をロボットであるとするのではおぼつかない。

 デジタル技術が今後どのように展開するかは、インターネットがどう機能するか、コンピューターがどう機能するかではなく、私たちがどのように機能させたいかで決まる。

 インターネット、携帯電話、ウィキペディアなどについて、見かけの新奇性から「今後どうなるか見極めよう」としてはいけない。もうすでに「待つ」行為は終わったし、見えてきたものはきれいではない。

追記

 前作では、「インターネットの自由」などのあいまいな概念が、高度に洗練された専制政権を倒すことに役立つとする考えが、いかにナイーブで危険かと書いた。

 この本では、インターネット至上主義と解決主義について書いた。解決主義はこれからも続くだろう。「直したい人」をなくすることはできないが、私たちはインターネット至上主義から自分を切り離す試みはできるだろう。

 この本がデジタル技術の知的議論の最前線に貢献できればと思う。

 その「議論」とは、一方がインターネットが世界の問題を解く鍵とする考えで、もう一方はネットは政治家を混乱させており、デジタル活動家がインターネットにたよることなく議論を展開するようになればいいと考えている。自分は後者だ。

 ポスト・インターネットの社会とは何だろう?

 まず、ネットあるいはソーシャルメディアが、私たちの脳、自由、独裁者に何をするかについての議論には加わらない社会だ。ツイッターやアラブの春現象よりもゴミ箱や駐車場の問題について考える社会だ。個々の問題について考えるほうが、デジタル技術の機会や限度についてよく考えられる。「ソーシャルメディアが革命を起こすか」という問いについて考えるよりも、だ。

 ポスト・インターネットのアプローチは、デジタル技術を原因とするさまざまな主張について、非常に注意深い態度をとる。デジタル技術は原因ではなくて、結果だと思っている。デジタル技術は空から降ってきた(神聖な)ものとは考えず、その詳細を研究する。

 過去100年ほど、その時代の人々は自分たちこそがテクノロジーの最先端をゆく、と言っていた。2005-07年ごろ、実は自分も革命が起きたといっていた。ウィキペディアにはうっとりするようなスタイルがあった。

 だから、自分は現在の議論に満足するインターネットの専門家の気持ちは分かる。しかし、おそらく、(その言動を)許さないだろう。

 この本ではインターネット理論家の大部分が、自分たちで作った想像上の神をあがめ、否定の世界で生きていることを示したかった。

 テクノロジーに関する議論の世俗分離を行い、インターネット至上主義の邪悪な影響をきれいにすることは、今日のテクノロジー知識人のもっとも重要な課題だと思う。

 インターネットの言葉自体が争点となり、不確かさがいっぱいであるのに、「インターネットの自由」という言葉を使うことの意義がどこにあるのだろう?

 テクノロジーは敵ではない。私たちの敵は、テクノロジーの世界に住む、ロマンチックで革命的な問題解決者だ。これをおとなしくさせることはできない。しかし、解決者の最愛の兵器「インターネット」については、多くのことができる。できるかぎり、そうしようではないか。(終)

***

 モロゾフ氏のエージェントから許可を得て、本の概要を抜粋紹介してきた。日本語の翻訳は未定のようだが、どこかの出版社が興味を持ってくれることを期待して、訳出してみた。

 「インターネット=善=自明のこと」という見方に挑戦する論考だった。「疑え、とにかく疑え」という声が聞こえてくるようだった。

 私自身がこの本を読んで、ネットに関する見方が変わった。

 この本は昨年3月に出版された。その後、スノーデン事件(6月以降)があり、ネットとプライバシーについての人々の考え方は随分と変わったのではないかと思う。商業上の目的で企業が利用者から情報を集めていること、政府・当局が大規模に情報を収集していることなどについて、「いかがなものか」という意識が強くなってきたと思う。

 今回の抜粋の掲載の過程で、「でも、仕方ないじゃないか」「どうせ現状は変えられない」という声を聞いた。

 私はそうは思わない。

 インターネットの未来の話ばかりではない。日常生活でおかしいなと思うことがあったら、友人同士で会話する、関連の論考を読んでみる、情報をもっと探してみるなど、何でもいい。ちょっと視野を広げるだけ、つぶやいてみるだけで、自分が、そして周囲が変わる。池に小石を投げる様子を思い浮かべてほしい。小さな声は一つの塊になるまでに時間がかかるかもしれないが、最終的には世論形成につながってゆく。「世論形成」という言葉が堅苦しければ、「雰囲気作り」と言ってもいい。ある雰囲気を作ることは、それほど難しくないーそんな気がしないだろうか?

 実際、スノーデン氏による暴露で、オバマ米大統領が情報収集体制の見直しを命じている。米ニューヨークタイムズがスノーデン氏に恩赦を与えるべきとも書いている。国家の機密を暴露した人物に恩赦を、とー。ウィキリークスを通じて機密をリークした米マニング兵は数十年の実刑判決を受けて受刑中だが、今後、釈放される可能性だってないわけではないだろう。

 当局から情報を取られないようなネットの暗号化をどうするかで専門家による話し合いも続いていると聞く。

 2014年の私たちはスマホを活用し、トラッキングに慣れ、グーグルめがねを奇妙とは思わなくなった。私自身はウェラブル機器がさらに発展したとき、究極には「おろかな人間は必要がない」方向にまで進むのかなと思い、複雑な思いがするーそれでも「構わない」方向に最後には進むのかな、と。

 昨日までは奇妙だと思っていたことが、今日は普通になる。そんな世界に私たちは生きている。

***

 モロゾフ氏のツイッターは皮肉ときついジョークで一杯だ。

(2014年1月12日の「小林恭子の英国メディア・ウオッチ」より転載)