日本から英領ジブラルタルへは、ロンドンを経由すると約30時間かかる。日本からロンドンに到着するフライトは夕方で、同日中の乗継便がないため、どうしても空港周辺のホテルに一泊する必要があるからだ。とても効率が悪く、しかもホテルの宿泊料金は心臓が止まるほど高い。スペインの南端に位置するため、パリやフランクフルトで乗り継ぐと、最短時間で到着できると想像を膨らませていたのだが、なにせフライトがない。主要なフライトは、ロンドンのヒースロー空港発着のブリティッシュ・エア、もしくはガトウィックやルートンと呼ばれる空港からLCCに搭乗する以外に方法がない。他にモロッコ航空があるが、まずはモロッコに行かなくてはならないので選択肢に入らない。
北西側のスペインから見た「ザ・ロック」(写真はすべて筆者撮影)
ロンドンから3時間弱でジブラルタルに到着する。機内から1つの巨大な「岩」がみえたが、この「岩(ザ・ロック)」そのものがジブラルタルであった。滑走路が短いため、離発着する旅客機はA-320など中型機に限られる。僅かな平地には集合住宅やビルが隙間なく建てられており、岩場の地形を利用したため道路は曲がりくねり、直線道路はほとんどない。居住人口は約3万人だが、労働者の大半は日帰りで通勤してくるスペイン人だ。
目の前にイルカが泳ぐジブラルタル湾が広がる。南に目をやるとジブラルタル海峡を航行する船舶が視界に入り、沖合14キロ先にはアフリカ大陸の山々が見える。モロッコは目と鼻の先で、ヨーロッパの終焉は、アフリカの始まりであることを実感する。伊豆半島から大島を見る光景に似ている。
ジブラルタル湾の船上からアフリカを望む
英国がジブラルタルをスペインから奪って占領したのが1704年、ユトレヒト条約(1713年)で正式に英植民地となった。スペイン軍による奪還作戦が幾度となく続いたが英軍は死守し、現在に至るまで英領となっている。ジブラルタルの西方50キロの地点にトラファルガー岬がある。この沖合で1805年10月に、英仏のトラファルガー海戦があった。隻眼、隻腕で知られるネルソン提督が、英海軍の拠点を置いたのがジブラルタルであり、ここを前線基地にしてフランスのナポレオンを相手に海戦で勝利を収めることができた。この海戦での勝利を契機に、英国は海洋覇権を確立していく。
ジブラルタル市内には小さな公園と見まがう「トラファルガー墓地」があり、海戦の戦死者が祭られている。第2次世界大戦では英空軍の精鋭部隊が基地を置き、対独戦で重要な前線基地となった。このように英国の運命を決した戦争で、ジブラルタルはしばしば大きな役割を演じてきた。
英国はジブラルタルを手始めに、地中海に浮かぶマルタ島、インド洋のセーシェル島やディエゴガルシア島、さらにスリランカなど、地中海からインド洋へ連なる海上に、海外拠点としての「岩」や「島」を確保してきた。その先にはマレー半島のペナン島、そしてシンガポールがある。極東の拠点として19世紀には、アヘン戦争を通じて中国から香港を割譲させた。地中海とインド洋がスエズ運河によって結ばれたことで、英国は本国から東南アジアへ最短の航行ルートを確保することに成功した。外国政府に頭を下げることなく、自国領のみを通過しての遠洋航海も可能となった。
山頂に設置されている各種レーダー
欧州の西端に位置し、天候に恵まれないため国土は貧しく、決して農業大国になれなかった小さな島国の英国は、海外へ雄飛することで豊かさを獲得してきた。そのために海外植民地を多数保有した歴史があることは周知の通りである。
国際情勢の変化に伴い、海洋覇権を謳歌した時代はすでに終わったが、代わりに、全世界の海洋情報を掌握し、安全保障および海洋ビジネスの領域において、大きな存在感を維持し続けている事実がある。
たとえばジブラルタルには、現在でも英国の陸海空軍が駐留しており、ジブラルタル海峡と北アフリカに目を光らせている。少なくとも大西洋と地中海を航行する全ての船舶情報を目の前で収集できるわけで、その中には潜水艦に関する情報もあるはずだ。北アフリカ諸国の度重なる動乱で、多数の英国人を脱出させた際にも、ジブラルタルは英特殊部隊の前線基地として重要な役割を演じたと聞く。
歴史的に海洋覇権を、また現代においては海洋情報を獲得するために、コスト・パフォーマンスを常に意識する英国にとって、ジブラルタルは「コスパ」の観点からみれば最上の海外領土だ。英軍が300年以上にわたってスペインから死守してきた理由も頷ける。英国による海洋覇権の構築は、ここジブラルタルから始まったといっても過言ではないし、その戦略的価値は今も決して色褪せていないことを再認識した。
観光客でにぎわう街中のレストラン
竹田いさみ
獨協大学教授。1952年生れ。上智大学大学院国際関係論専攻修了。シドニー大学・ロンドン大学留学。Ph.D.(国際政治史)取得。著書に『移民・難民・援助の政治学』(勁草書房、アジア・太平洋賞受賞)、『物語 オーストラリアの歴史』(中公新書)、『国際テロネットワーク』(講談社現代新書)など。近著に『世界史をつくった海賊』(ちくま書房)。
【関連記事】
(2015年10月6日フォーサイトより転載)