ギリシャの債務延長問題が「借りた者勝ち」の状態になっています。そもそも借金の返済の延長を嘆願する立場なのはギリシャなのに、彼らは形勢が悪くなると「第二次世界大戦当時にナチス・ドイツが行った数々の悪行」を持ち出すことで交渉を有利に進めようとしています。ドイツは、なぜそんなギリシャに対して弱腰なのでしょうか?
今日は、この問題について考えてみたいと思います。
よく「ギリシャ人は怠惰だ」というけれど、僕は別にギリシャの国民性は突然勤勉になったり、突然怠け者になったりしていないと思います。
むしろ大きく振れたのは「投資家がギリシャを見る目」です。
ギリシャは2001年から共通通貨ユーロを使い始めました。それまでのギリシャの通貨、ドラクマよりもユーロの方が信頼が置ける通貨だという認識から、ギリシャの信用力はユーロの使用でUPするという認識が市場参加者の間に生まれました。これは国際金融の世界ではコンバージョン・トレードと呼ばれる、教科書的な「儲けのチャンス」です。
コンバージョン・トレードでギリシャ政府は比較的ロー・コストで、沢山借金できるようになりました。
あぶく銭がギリシャに飛び込んでくるということは、景気も良くなります。ギリシャの2000年から2009年までの10年間のGDP成長率は平均すると3%でした。
これは同じ時期のドイツのGDP成長率が平均すると0.9%しかなかったことと比べても立派な数字です。
ある国が自国の経済の実力より強い通貨を手にすると、輸入品が安く買えるので消費ブームが起き、逆に経常収支は悪化します。
ギリシャは2009年に無節操な政府の支出超過が発覚した後、IMFやEUの指導の下、政府支出を絞り込み、歳入を増やす施策を実施しています。
この緊縮財政は、失業率の増加を招いています。
ただ上の一連のグラフからも判るとおり、政府の収入と支出のバランスは再び均衡しつつあるし、景気もようやく最悪期を脱しつつあります。つまりギリシャの財政立て直しは、ある程度の進捗が見られたわけです。
このような「とにかく、切詰めろ!」という財政再建のアプローチは、EUが加盟国を決める際に、成長と安定に関する合意(Growth and Stability Pact)と呼ばれる、財政規律に関するルールの順守に合意しなければいけないことを踏襲しています。
それと同時にドイツの経済運営に関する考え方を色濃く反映しているとも言えます。
それではドイツの考え方とは何か? ですが、それは「アンチ・インフレ」です。
第一次世界大戦で敗戦国ドイツは賠償金の支払いを要求されました。しかし戦争で国が疲弊していたので第一回目の支払いだけは何とか約束を果たしたものの、その後はもう払えなくなってしまいました。
そこでフランスは借金のカタにドイツの鉄鋼の生産拠点、ルール工業地帯を占領します。
ドイツはただでさえ経済が疲弊しているところへ国の経済の心臓部であるルール工業地帯を持って行かれたので経済のエンジンを失いました。
各地でストライキがおこりました。
労働者の給与はストライキ中でも支払わないといけないことから政府はどんどんお金を刷り、これが1兆倍というハイパー・インフレーションを招きました。
ということは1億円くらいの貯金を一生懸命貯めた人でも1兆倍のハイパー・インフレではキャッシュで貯金していたら一文無し同然になったわけです。
ドイツの中産階級が壊滅的な打撃を受けたことは言うまでもありません。この中産階級の弱さが、その後のドイツのさまざまな問題を生む原因となります。
ドイツが1923年頃にこのハイパー・インフレを経験した当時、のちにヒトラーの宣伝部長を務めることになるヨーゼフ・ゲッペルスはベルリンの様子を日記の中で次のように語っています。
ベルリンは罪業の「汚水溜め」であり、そこは反吐が出そうな狼藉者、色狂い、ギャングたちの巣窟と化している。いっそベルリンという街そのものがドイツから消えてなくなった方がマシだ。
彼は悪徳が栄え、風紀が乱れたベルリンに失望します。そして『わが闘争』を読み、アドルフ・ヒトラーに希望を見出し、彼に忠誠を誓います。
当時、ベルリンはモスクワに次いで共産主義者が多い街で、党員は25万人を数えました。庶民は資本主義を信じられなくなって、気持ちが共産主義に移り始めていたのです。つまりドイツが共産化してしまうリスクが極めて高かったのです。
一方、ヒトラーのナチス党員はベルリンには200人を数えるだけでした。ヒトラーはゲッペルスに対し「ベルリンから共産党員を駆逐し、ナチス党により征服しろ!」という指示を出します。
まずゲッペルスは酒場で若者の集会を幾度となく催します。そして不良たちを集め、かっこいいユニフォームとタダのビールをたっぷり与えるという約束で、あちこちで暴力をふるうチンピラ集団を組織します。こうして400人の「突撃隊」は共産党員と各地で殴り合いを行い、またユダヤ人を襲いました。
こうして1928年の選挙に臨んだわけですが、この時までにはドイツの経済は米国からの経済支援の効果もあり、かなり立ち直っており、ナチス党は惨敗します。
ところが1929年にニューヨークの株式市場が大暴落すると不況は欧州にも押し寄せ、ベルリンでは50万人が失業します。街に失業者が溢れはじめると、ゲッペルスは「第三帝国(Third Reich)」というアイデアを思いつきます。つまり神聖ローマ帝国、ホーエンツォレルン家による帝国に次いで、第三の黄金時代を築こうではないか!というキャッチフレーズです。
ドイツの産業界は、共産化を恐れていたので、ナチスの登場を歓迎します。
ゲッペルスはユダヤ人を「善良なドイツ人の勤労や努力に寄生するパラサイトであり、金融の力を通じて世界征服の陰謀を企んでいる」という陰謀論を展開し、攻撃のターゲットにします。
この戦術が功を奏してナチス党は1930年の選挙で600万票、107議席を獲得します。そして1933年の選挙の後、ヒトラーは宰相になります。
ナチス党はヒトラーが宰相になった週に5万人を政治犯として逮捕し、新聞記者や法律家を捉え、殴ります。
ベルリン市民は伝統的に石橋を叩いて渡るような慎重さがあり、政治の不安定や生活に対する不安は、大嫌いです。
しかし世界不況以来、まさしくその生活不安や政治の不安定にさらされてきたので、「強い」ナチス党は将来の不確実性を取り除く心強い存在として歓迎し、その暴力に対しては、見て見ぬフリをします。
その後、ナチス・ドイツは第二次世界大戦に向かって邁進してゆくわけですが、1945年4月までには戦争の帰趨は明らかとなり、ベルリンは50万人の守備兵に対して250万人のロシア兵に包囲されてしまいます。
このベルリンの戦いではドイツ側は9万人の兵士が死に、残りはシベリアの収容所に送られます。街の90%は破壊され、街路には崩れ落ちた瓦礫がうず高く積み上がり、崩れた壁の下には死体が埋もれ、どす黒い血に染まった水溜りには、グロテスクなほど腹をふくらました蠅(ハエ)が群がったといいます。街燈にはドイツの脱走兵が首吊りの刑にされたままぶら下がり、電気も、水も、食料も無い状態でした。
ベルリンに入城したソ連軍は、時計の針をモスクワ時間に直し、工作機械など、未だ値打の残っているものは全て鉄道に載せてモスクワに送り、ライヒバンクに保管されていた2390キロの金塊はクレムリンに送られました。
ソ連軍の兵士は廃墟となったベルリンのアパートに隠れているドイツの娘を見つけては強姦し、ドイツ人の父親や夫はその様子を食器棚に隠れて震えながら見守るしか無かったといいます。
このソ連軍の乱暴についてスターリンは「兵士は千キロもの道程を行進し、戦ってきて、流血や銃火を浴びてきたわけで、彼らが女に乱暴するのは、無理もない」とコメントしました。
このとき、10万人近いベルリンの女性がソ連軍に乱暴され、その多くは出血で死んだほか、無理やり妊娠させられた女性の一部は自殺しました。
戦後ドイツは暫定的に西側をアメリカ軍が、東側をソ連軍が占領し、将来の首都をベルリンにするという含みで、ずっと東ドイツの奥深くに位置するこの街も西ベルリンは西側が、東ベルリンはソ連が管理することになりました。
1948年、ドイツ統一の話し合いが絶望的だとわかるとソ連はベルリン封鎖をします。その後、東ベルリンから西ベルリンへ亡命する市民が絶えず、1961年6月15日にソ連はベルリンの壁の建設を始めます。
ベルリンの壁は300の見張り台と250匹の番犬に守られ、西側に亡命しようとする市民は狙撃されました。約100人がそうやって命を落としたと言います。
一方、西側諸国は西ドイツを盛り立て、とりわけ西ベルリンを支援するため、数々の経済的特典を与えます。一例として西ベルリンに転居すれば大幅な減税を受けられる上、引っ越し代も政府持ちでした。また西ベルリンに生活している限り、兵役を免れることが出来ました。この関係で、西ベルリンには沢山の若者が西ドイツから移り住んだのです。
デビッド・ボウイは1970年代中頃、麻薬中毒で生活がメチャクチャになっており、ちょうどその頃、ロスアンゼルスで映画『キャバレー』の原作である『さらばベルリン』を書いた英国の作家、クリストファー・イシャーウッドと知り合い、生活を立て直し、創作活動に身を入れるためにベルリンに移り住みます。このときボウイが作った「ヒーローズ」という曲はベルリンの壁を乗り越えて亡命しようとするカップルを狙撃する兵士が、わざと二人の頭上に弾を外すことで逃がしてやり、ヒーローになるという主題です。
その後、1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統合が起きるわけですが、1914年の第一次世界大戦に始まったドイツの「異常な状態」は、75年間続いていたという風にも解釈できるわけです。
従ってベルリンの壁の崩壊はドイツ人にとって感極まるイベントでしたが、英国やフランスは東西ドイツの統合に反対します。強いドイツが復活すると、また戦争をやりかねないと懸念したからです。
英国とフランスは、EUというカタチで、完全に政治・経済統合することを条件に、しぶしぶ東西ドイツの統合を承認したのです。つまりドイツがひとつの国であることを国際社会から容認されるためには、EUという手枷足枷からドイツは逃れることは出来ないのです。
ギリシャをEUから叩き出せば、ドイツは「それはEUが成立したときの約束違反だ」として、必ず批判されます。また「強すぎるドイツ」に対する国際世論の警戒も誘発します。
2009年にギリシャ問題が最初に発覚したとき、最初ドイツのメルケル首相は「ギリシャをEUから叩き出すことも辞さない」という強硬な態度で臨みました。
これを見たヘルムート・コール元首相は、あからさまなメルケル批判をします。「メルケルは国際政治の機微をまったくわかってない」というわけです。彼は実に16年も首相を務めた現代ドイツ最大の政治家であり、しかも複雑に交錯する英国、フランス、アメリカ、ロシアなどの利害をバランスすることで東西ドイツ統一の偉業を成し遂げた人です。
メルケル首相にとってコール元首相は恩師であり、公の場で自分の采配が批判されたとき、まるで落雷に打たれたように仰天し、蒼白になったそうです。この事件以来、メルケル首相は一転して熱心なユーロ擁護派になっています。
ギリシャは、ギリシャ経済が狂ってしまった原因はユーロの導入と、それによるコンバージョン・トレードで投資家や国民が熱狂したツケが回ってきたことだということを良く理解しています。
それは過去100年の間、ヨーロッパが背負ってきた歴史の暗さ、重さに比べれば救いがたい状況ではありません。
その一方でドイツが背負っている歴史は、重いです。
ギリシャは土壇場でケツを捲れば、必ずドイツが引き下がることを良く理解しています。
だから「借りた者勝ち」が続いているというわけ。
(2015年4月7日「Market Hack」より転載)