人気歌手のジョージ・マイケルが53歳で亡くなったというニュースについて、1990年代後半にカミングアウトした若い同性愛者として、私に大きな影響を与えたこの人物を讃えるツイートをいくつか投稿した。1つ目のツイートでは、ジョージとその作品の素晴らしさを知らない人に、彼の音楽を聴いてもらうよう頼んだ。2つ目のツイートはこうだ。
「ジョージ・マイケルへの敬意として、今晩、どこにいようが近くの公衆トイレに入って、そこで見知らぬ人とセックスしたらどうだろう」
私は、ジョージ・マイケルが公衆の場でよくセックスをしていたことについてツイートしたつもりだった(ジョージは1998年にビバリーヒルズの男子トイレで覆面警察官に逮捕され、10年後にロンドンでも同じことを繰り返した)。天国のウェンブリー・スタジアムで感謝してくれるだろうと、気を利かせたつもりでいたが、同時にこうも思っていた。これはジョージ自身のことについて(1998年に1度カミングアウトしている)、セクシュアリティ、ゲイが求めるセックスについて、ジョージがどれだけオープンで、率直で、悪びれなかったかを私なりに讃えたつもりだった。
しかし、すぐにファンが怒った。私のTwitterには「無礼だ」「悪趣味だ」「下品だ」というメンションが殺到した。何人かは「まだ早い」とコメントした。私がジョージの人生でこの側面にだけ焦点を当てたことが信じられないと言ってきた人もいた(これは明らかに私の一つ前のツイートを読んでいない)。なんてことだ! ある人は私のことを「最悪の人間」と呼び(ちょっと信じられないが)、別の人は私が死んだら「おまえの墓に小便してやる」と脅迫した(私の死体に脅迫されてもねえ…)。
私は、ジョージが同性愛者としてのセクシュアリティと性生活をオープンにしたおかげで、自分のセクシュアリティに気づき、今の自分がいると思う。私はそのことを説明しようと試みたのだ。それは現在の同性愛嫌悪、さらに同性愛者のセックスをオープンに語れない文化の中で、まさに奇跡的だった。
私のツイートは冗談ではないし、無礼でも何でもなかった。そう受け取る人は、同性愛者のセックス(公共の場であるかどうかによらず)は恥ずべきことだと思っていると意思表示していることになる。私はそうは思わないし、ジョージもそうだろう。
実際、1998年に逮捕された後に、ジョージは事件を、屋外でのセックスの喜びを祝う歌「Outside」に仕上げた。公衆トイレがディスコに変わり、ジョージが警察官の恰好をした、自意識過剰なミュージックビデオとともに。
2008年に薬物関連の容疑で公衆トイレで逮捕された後には、相手を探し求める性癖についてガーディアンに率直に語った。「1年間で数えるほどだが、とても暖かい日にはそうする。手っ取り早く、自分に正直になるには、バーで立ってるよりよっぽど良い場所だ。ベッドで誰かに向かってめちゃくちゃに叫びまくり、相手も自分と同じことを求めていると望んでいるんだ」。
彼は言葉を濁すことなく、思ったことだけを語った。
ジョージは2011年に、1987年のヒット曲「I Want Your Sex」を引用し、似たようなメッセージをツイートした。
「これまでセックスについて謝ったことはないし、これからも決して謝らない!同性愛者のセックスは自然で、素晴らしい!みんながするわけではないけれど…」
ジョージ自身がこんなことを言っていたのにも関わらず、なぜみんな狂ったように驚くのか? なぜジョージのメッセージをもみ消そうとするのだろうか? それは、誰もがヒーローにはピュアなイメージを持ち続けたいからだ。さらに、同性愛者のセックスは(野外であろうとなかろうと)多くの人が「恐ろしいモノ」だと感じているからだ。汚らわしい、不自然なものだと感じている。現代文明の没落の始まりだと感じている。事実、ドナルド・トランプ氏がアメリカ最高裁判所判事の候補者として検討しているウィリアム・プライアー氏は、自宅でのプライベートな空間でですら、合意があっても同性間のセックスは違法であるべきと考えている。
同性間のセックスはそんなに不自然なことではない。ただ使用される性器の組み合わせが違うだけで、大半は異性同士のものと全く同じだ(さらに、異性愛者もフェラチオやアナルセックスを楽しんでいけないと主張する人がいたら嗤ってやる)。
私にとってゲイのセックスを問題にする異性愛者よりも恐ろしく、また悲しいのは、私のツイートを攻撃しようと待ち構えている同性愛者の方だ。以前にも似たような人たちに出くわした。そして、いくつかの道筋を経て、彼らの不安と恐怖を理解した。一般的な考え方は、自分たちが、とりわけ(同性愛者全員が見えない、無視される、または、中傷されてばかりの世界で自分たちを代表する)ジョージ・マイケルのような人が、お行儀良く、社会の主流に従って同化しないと、既に得られた権利を維持し、さらに拡大することができない、というものだ。そのため、セックスについて率直かつ正直に話さず、何世紀にもわたって同性愛者たちを惑わせ、恐怖に陥れたあの悪魔、つまり「口を閉ざし、結婚し、子供をつくり、また、トラブルを引き起こさないようにすべきだ」が復活することになる。
しかし、そうはいかない。我々の先人たちが多くのものを犠牲に、時には命まで犠牲にして築いてきた進歩と努力を水の泡にするわけにはいかない。セックスに夢中になりながら嫌悪する、矛盾したこの壊れた社会を認めるわけにもいかない。つまり、ジョージが同性間でセックスをしていたことや、同性を愛していたことを否定してはいけない。ジョージの音楽を恥ずかしがらず楽しみ、褒め称えたいからといって、都合良く彼がそういうことをしていなかったことにするのも間違っている。
マイケル本人は決してそのようなことは望まないだろう。憎むはずだ。2005年にガーディアンに何と語ったか見てみよう。
「テレビのスイッチを入れるだけでいい。そうすれば、全イギリス社会が、明らかにゲイで、明らかに性的脅威のないゲイの男性によって癒やされているのがわかるだろう。メディアに登場するゲイの男性は異性愛者に安らぎを与えている。それに対して私は反射的にこう答える。自分は汚い不潔な野郎で、折り合いをつけられないものは折り合いをつけられないんだ」。
公共トイレを浴場にすべきだとか、あるいは、全員が近所の人と公園でセックスすべきだと、私が主張しているという人が出る前に言っておく。そんなことは言っていない。この社会のセックス観、何がOKで、何をダメだと見なしているのか、それはどうしてなのかを、私はずっと問題にし、明らかにし、挑戦してきた。これらの行為を禁止する法律が存在するのは私も知っているし、その理由も理解している。私が言いたいのは、それがひとたびゲイの個人的な性生活の話になると、恥ずかしいとか、ヒステリックな反発が来ること、また、同性愛者であるかどうかによらず、セックスやセクシュアリティは悪いものと見なして、見られないようにしようとする傾向のことだ。
また、ジョージの薬物乱用との長い闘いと、それが彼の性的欲求や行為にどのような役割を果たしたのか、あるいは果たしていないのかについても、簡単に述べたい。ゲイの男性、麻薬、セックスには緊密かつ複雑な歴史があり、私はそのいずれも無視するつもりはない。しかし、彼がセックスに前向きでオープンだったことが、単に薬物の結果や症状だったとも言いたくない。
そう、だから、ジョージ・マイケルは素晴らしい歌手で美しいソングライターだったが、同時に、自身のセクシュアリティを恥じず、セックスを愛したゲイの男性だった。彼の人生のすべてを讃えたい。音楽と性、勝利と敗北、そのすべてを。彼の生と死、どちらか片方だけに「敬意」を払いたくない。彼を讃える最良の方法は、本当はどんな人物だったか、本当は何をしたのか、そして、それが私の人生をどのように変えたかについて語ることだ。語るべきは、男性用トイレでペニスのために男漁りをしていたことを含めた、そのすべてだ。
ジョージ、あなたがしてくれたすべてに感謝する。そして、天国にいる男性陣が、かつてのあなたのように熱いことを、また、自身がふわふわの雲になって、もういろんな最高のトラブルに巻き込まれていることを、願っている。
【ハフィントンポストUS版エディトリアルディレクター、ノア・ミケルソンの寄稿】
ハフィントンポストUS版に掲載された記事を翻訳しました。
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