DeNAが東大医科研と組んで遺伝子診断サービスを始めた。多くのメディアが取り上げ、永田町でも超党派の勉強会が立ち上がった。
IT企業と医療を結びつけたのは、遺伝子シークエンス技術の急速な発展だ。90年に米国が主導して始まったヒトゲノム計画の完遂には、13年の歳月と30億ドルの予算を必要としたが、最近では数時間、1000ドル程度で解読することが可能になった。
シークエンス技術の発展で加速したゲノム研究により、人類の近未来にはどのような変化が訪れるのだろうか。最近の注目は、複数の遺伝子や全てのゲノムを解析し、その結果を用いて究極の個別化医療を提供することだ。既に、一部の医療では実用化されている。近年は、教育やスポーツへの応用も進んでいる。
遺伝子診断は、まだ発展段階だ。「現代の星占い」と揶揄されても仕方のないレベルのものもある。ただ、私は試行錯誤を繰り返して発展していくと考えている。何事にも試行錯誤が必要だ。
ところが、一部の専門家は「現時点でDeNAが遺伝子検査サービスを販売することは時期尚早で、政府による規制が必要」と考えている。私は、情報開示の徹底、遺伝子差別の禁止は必須だが、「どの遺伝子診断をやってよくて、どの遺伝子診断をやってはならないか」を政府や、その周辺の団体が決める「事前規制」には反対だ。今回は、この話を取り上げたい。
反対派の医師が、遺伝子検査の問題ケースとして紹介するのは、米国の「23andMe」だ。共同創業者で、同社のCEOを務めるアン・ウォジツキは、グーグルの創業者であるセルゲイ・ブリンの妻である。この会社が、どのような背景を持つかお分かり頂けるだろう。
「23andMe」は、疾患リスクや体質に関する遺伝情報に加え、人種に関する遺伝情報を提供するサービスを始め、膨大なデータを蓄積してきた。順調に世界の遺伝子診断マーケットを支配するかに見えた。
ところが、同社のサービスの継続が困難になる事態が起こった。昨年一一月、FDAが同社の遺伝子診断サービスの中止命令を出したのである。現時点のシークエンス技術は一定の確率でエラーが避けられず、臨床試験による検証もなく、一般消費者に遺伝子サービスを提供することは、時期尚早と判断したためである。
確かに、遺伝子情報に基づく、疾患リスクの推定方法は、まだ十分に確立しているとは言えない。特に、心筋梗塞やアルツハイマー病のような多因子が絡む疾患のリスクを推定するのは難しい。
実際、遺伝子診断技術は未熟だ。「23andMe」を含む複数の遺伝子検査会社に同時に検体を出したら、全く違った結果が返ってきたという笑えない話もある。
FDAの命令を受け、「23andMe」は、即座に疾患リスクを推定する遺伝子検査の販売を中止した(人種の推定は継続している)。ただ、「23andMe」も強かだ。着実に手は打っている。
医学的専門性の低さを指摘されたことに関しては、医学界に広いネットワークを持つジル・ハーゲンコード医師をチーフ・メディカル・オフィサーとして雇用した。
政治への配慮も余念が無い。5月3日、ウォジツキはホワイトハウスを訪問し、オバマと夕食を共にした。その5日後、今度は彼女の自宅にオバマを招き、政治資金集めに協力した。夕食には20人の関係者が出席した。夕食に参加するためのチケット代は、一人当たり3万2400ドル以上である。
これが奏功したのだろうか。7月には国立衛生研究所(NIH)が、「23andMe」に約140万ドルの研究費を支出することを決めた。ウェブベースの遺伝データベースを整備することが目的である。
最近になって、「23andMe」はファイザー社と、炎症性腸疾患の遺伝的要因を調査するための、共同研究を開始した。
将来、「23andMe」が蓄積したデータを購入するのは製薬企業だ。遺伝情報に基づく個別化医療は、世界の潮流。製薬企業にとっても、ビッグデータの取り扱いになれた「23andMe」と協力することは渡りに船だ。IT企業と製薬企業のコラボによる、新しい臨床研究が生まれつつある。
「23andMe」は既に16報の医学論文を発表している。動機の不純さは兎も角、「23andMe」がゲノム研究の重要なプレーヤーに成長しているのは事実だ。米国は、順調に遺伝子診断・ビジネスのデファクトスタンダードの獲得しつつあると言っていい。米国在住の知人は「23andMeの遺伝子検査は再開目前」と言う。
我が国でもDeNAを始め、複数の会社が遺伝子検査を始めようとしている。彼らが販売するサービスへの質の評価は必要だ。ただ、一部の専門家が求めるような政府による事前規制には慎重であるべきだ。日本の議論と無関係に、米国では体制整備が進むからだ。
日本が乗り遅れればどうなるか。それは日本人の遺伝子データが、そのまま米国に渡るだけである。このことが、我が国にどんな結果をもたらすかは容易に想像できるだろう。今こそ、世界の潮流を踏まえ、遺伝子検査のあり方を徹底的に議論すべきである。
*本稿は、「医療タイムス」の連載を加筆修正したものです。