「負の遺産」として注目されていた福島県双葉町の原発PR看板が、再び「日の目」を見ることになった。
2015年に撤去されていたが、県は双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」のテラスに設置する方針を固めた。地元紙・福島民報などが報じた。県は1月4日、この看板の運搬や設置に関わるとみられる業務委託の一般競争入札を公告した。
■地元小学生が考案「原発と一緒に町が発展すれば、新幹線も来る」
原発PR看板は、縦2メートル・幅16メートルと大型だ。福島第一原発が立地する福島県双葉町の中心部の「原子力広報塔」として、道路をまたぐように掲げられていた。この広報塔は1987年に国の交付金で双葉町が設置。双葉町内に最初にできた第一原発5号機の営業運転から10年目を迎えるころだったという。
「原子力明るい未来のエネルギー」の標語は当時、双葉北小学校6年生だった大沼勇治さんが、学校の宿題として町の公募に応じて考案した。朝日新聞デジタルによると、大沼さんは次のように振り返っていた。
「双葉はすごく田舎でした。たまに母親にいわきや仙台に連れて行ってもらうと、映画館や駅ビルみたいなのがあって全然違う。原発と一緒に町が発展すれば、将来は双葉にも新幹線とか特急が何本も来て、人口もどんどん増えていく。そんな明るい未来をイメージしました」
優秀賞を取った大沼さんの標語が、広報塔に1991年から掲げられた。朝日新聞デジタルによると「明るい未来」の標語は、町民大会や海開きのテント、道路沿いの電光掲示板、電話帳の表紙など、町のいたるところで使われたという。まさに原発城下町である双葉町を代表する標語だった。
■福島第一原発事故で放置されるも2015年に撤去。伝承館も当初は展示に消極的だった
しかし、2011年の原発事故で双葉町の全町民約7000人が町外に避難。2021年1月現在も町の大部分が放射線量が高い「帰還困難区域」となっており、町では2022年春の住民帰還を目指している。
原発PR看板も住民がいない町で放置されていたが、2015年12月には「老朽化で部品が落下する恐れがある」として双葉町が撤去した。
標語を考案した大沼さんらは「原発事故の悲惨さと教訓を後世に伝えるためにも残すべきだ」として、町内外の賛同者約6000人以上の署名を集め、双葉町に撤去反対を申し入れたが、受け入れられなかった。ただし、将来の展示を視野に、会津若松市の福島県立博物館で保管されることになった。
「東日本大震災・原子力災害伝承館」が2020年9月20日、双葉町に開館した。双葉町は原発PR看板の実物展示を要望していたが、県は全長16メートルという大きさを理由に看板を展示せず、写真の展示にとどまっていた。
河北新報の取材に対して、大沼さんは「本物には重みがあり、展示してほしかった。伝えづらいことも伝えなければならないと思う」と消極的な県の姿勢に疑問を投げ掛けていた。
原発PR看板が展示される方向になったことを受けて、双葉町の復興推進課の担当者はハフポスト日本版の取材に対して「町としても展示を望んでいたので意義深いことです」とコメントしている。