始まった「福島一揆」――東日本大震災から3年半

静まりかえった町や村。表向きは何も変わらないように見える福島の風景の裏で、しかし、徐々に、そして大規模な、かつてなかった変化が起きようとしている。
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時事通信社

 漆黒の闇。車のライトに浮かび上がる曲がりくねった道路の先に、時折、野生の狐の目が黄色く光る。

 福島県郡山市から南相馬市に向かう途中、予定の遅れを取り戻そうと、幹線道路から山中の枝道に入ったのが間違いの元だった。以前、日中に何回かは通ったことのあるルートだったが、夜は全く別の世界。レンタカーのナビゲーション・システム に最新情報が入っていなかったこともあり、行く先々で交通止めに出くわす 。東京電力福島第1原発の事故後に原発に近い地域一帯にかけられた避難指示や居住制限等の指定に伴う交通規制である。

 やむなくUターンをして出直そうとしても別の道で再び規制に行く手を阻まれる。わけが分からなくなって闇雲に走りまわったあげく、出発点に戻ったりする。まるで狐に化かされているような旅の末、目的地に着いたのは何と5時間後。その間、道を尋ねようにも人影はなく、たまに人家を見かけても屋内に人が住んでいる気配はない。

 3年半前、大震災直後の現場を取材しようと、原発のある福島浜通りを車で北上した時のことを思い出した。誰にも出会わない夜道の恐ろしさは、あのときとそっくりだ。当時足を延ばした宮城から岩手にかけての道は、津波で運ばれてきた瓦礫で埋め尽くされ、これもすさまじい光景だったが、これら三陸地方では今は高台移転や漁業の復興など次第に明るい話題も伝えられている。だが、福島では、被災の傷跡はむしろ拡大しているように見えた。

 瓦礫の代わりに除染作業で出た泥や草木が、ビニール袋のような巨大な特殊容器に詰め込まれて、無人の街の道路脇に延々と並んでいる。「福島の復興なくして日本の復興なし」と叫んだ安倍晋三首相の言葉がいかに空しいか、現地を見れば説明の必要はない。

被災者の不満が噴出

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 静まりかえった町や村。表向きは何も変わらないように見える福島の風景の裏で、しかし、徐々に、そして大規模な、かつてなかった変化が起きようとしている。原発に隣接した浪江町が代理人となり、住民が全町避難に伴う精神的苦痛への慰謝料増額を東電に求めて、国の原発ADR(原子力損害賠償紛争解決センター)に集団で和解申し立てを行ったのである。続いて浪江と同様に全住民が避難生活を強いられている飯舘村の住民も同様の集団申し立ての準備を進めている。

 驚くべきは申立人である住民の数だ。浪江の場合は全町民の73%にのぼる1万5313人(申し立て後 、避難生活の中で死亡した住民も170人以上いる)。飯舘村は9月6日に申し立ての受付を始めたばかりだが、週末6、7の両日だけで既に約6000人の住民の半数を超える3100人に達するという。

 浪江の申し立ては、国の原子力損害賠償紛争審査会(原倍審)が決めた指針で事故半年後にいったん1人月額10万円とされた慰謝料を、これに加え25万円を支払うこと(2012年3月-14年2月)などを求めたものである。避難生活の長期化と今後の生活再建の見通しが困難なことがその理由だ。

 ADRセンターは今年3月、その趣旨を認めて増額分を1人5万円とする和解案を示した。浪江側は今年5月、これを受諾したが、東電は増額を1人2万円とする「事実上の拒否回答」(馬場有浪江町長)を行い、今度はADRが東電に今月25日を期限に再回答を求めている。

 一方、飯舘関係の申し立ては、「初期被曝の慰謝料・避難の長期化への慰謝料延長と増額・不動産賠償の増額」等を求めるもの。どちらの町村も、被災者が長期間、避難生活を強いられ、その生活環境は改善どころか悪化しているという過酷な現実の中で、現在の不安だけでなく、将来の生活設計ができない、それなのに原倍審の指針はこうした現実に対処するのにきわめて不十分だ、という被災者の不満が噴出したものである。

「一揆」主導者の深い悩み

 寡黙で忍耐強い福島の農村地帯の住民たち。元来、お上(かみ)にたてつくことは好まず、原発事故という理不尽このうえない仕打ちにあったというのに、下を向いたまま耐えてきた人々が、とうとう声を上げたのである。それは、日頃穏やかな彼らの性格を考えると、心の中の抑えきれない激しい怒りの表現であり、静かで緩慢ではあっても、浜通りの「一揆」と言っても過言ではないように思える。

 飯舘村でADR申し立てを主導した長谷川健一さん(60)は、申し立てを言い出した時の心境をこう語る。

「今まで黙って暮らしてきたのだから、このまま黙っていたかった。もう我慢できねえと踏ん切りをつけるのに、どれだけ悩んだか」

「一揆」の首謀者にしても悩みは深かったのだ。年老いた親や親戚、部落の人々に気兼ねをして暮らしてきた住民はすべて、「蜂起」にあたってもだえ苦しんだようだ。

 福島は3年半前もやはり過疎地だった。今、政府は、景気回復政策の柱に「地方創生」を掲げる。そして一見、福島の復興にとって追い風のように聞こえるこの政策が、実態 は全く逆に、これまで福島の復興を阻み、これからも福島住民の希望を奪っていくことが見えている。福島の住民はそれを見てしまったのだろう。

絵空事になった「美しい村」

「政府が打ち出す公共事業のラッシュで、人手が集まらないんです」。今も全村避難を強いられている飯舘村の門馬伸市副村長はうめくように言う。

 飯舘村は菅野典雄村長の下、独特の地域作りによって、原発事故前までは過疎地の村おこしのモデルとさえ言われてきた。「心のこもった」といった意味の「までい」を合い言葉に進めてきた「美しい村」は全国に知られるようになった。

 原発事故はそのすべてをたたきつぶした。村の過半を山林で覆われた飯舘村では、中途半端な除染は効果がない。雨や雪とともに、山林の放射性物質が里に流れ込む。実際、除染作業によっていったん下がったはずの線量がしばらくすると再び元に戻る事態が村の各所で何回も繰り返された。住民が住めない、仕事もできないのでは「美しい村」は絵空事だ。

 福島被災地の住民が、心の中で切実に望んできたのは、ふるさとの町や村への帰還である。明日のふるさとを約束するには、子どもたちが安心して住める環境がなければならない。それにはなおのこと徹底した除染が必須である。放射能汚染をそのままにしていては、田や畑はもとより、学校も保育所も使えない。山深い飯舘村の環境は、それを分かりやすく教えたのである。

本音は「財政支出の抑制」

 しかし、徹底した除染とは果たして実行可能なのか。家々や学校の屋根を葺き替える。場合によっては土台から建て替える。山林の伐採も必要になるだろう。田や畑の土は掘り起こして、はぎ取らねばならない。養分を含んだ土がなくなって作物はできるのか、といった問題もある。

 仮にそのすべてが実行可能だとしても、それらには天文学的な費用がかかるだろう。それは誰が負担するのか。ここまできて、福島の復興を阻んでいるのは単なる人手不足ではなく、復興費用の財政負担であることが誰の目にも明らかになる。

 政府にとっては適当な除染で「帰還」が可能であるかのように住民が思ってくれている状態が最もありがたい。住めないと分かって集落を丸ごと移転させることになれば、さらに金がかかる。要は、政府にとっての復興政策の原則は、財政支出の抑制なのである。

 菅野村長は事故当時、「2年で除染を終え、全員の帰村を実現する」と宣言した。「そんなにうまくいくのかな、という気もしたけれど、そうなってほしいという期待もあって、村民は村長についていったのです。でも既に3年半が過ぎたのに、事態は全く変わらない。もう村長の言葉にまじめに耳を貸す村民はいなくなり始めている」と村の長老たちは口をそろえる。

 浪江町と違って飯舘村当局はADRに消極的だ。代わりに村長の口からは「公民館の建て替え」「村営住宅の建設」など、今も次々と村の「復興計画」が語られる。しかし、こうした話も、今では多くの村民が単なる箱物行政ではないか、今はそんなことをしている場合か、と醒めた目で見るようになった。

はるかに重い政府の罪

 村の復興を阻む元凶は、夢物語を語り続ける菅野村長ではない。村長の苦闘は、創業時代とは激変した経営環境についていけずに凋落するベンチャー企業経営者の姿に重なる。

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 被災地を襲った不幸の本質は、共同体の崩壊だ。崩壊させたのは国である。飯舘村だけの話ではない。かつて浪江町の津島地区で下津島区長を務めた今野秀則さん(67)は、今は郡山に近い本宮市で夫人とともに避難生活を送っている。

「東京に去った子どもは、この本宮にさえ寄りつかない。孫がいるから仕方ないね」。語るほどに今野さんの目は潤んでくる。

 無責任な夢物語を語って目の前に進行する問題を放置してきたのは、菅野村長だけではない。その点で政府自身の罪ははるかに重い。

 今や国の財政は破綻寸前。福島への財政支出をためらってまで必死になった景気対策もほとんど効果はない。その間、原発関連の支出に歯止めがかからず、東電自体が経営破綻寸前に追い込まれた。すべてが無策のまま、原発再稼働の日程だけが粛々と語られる。右も左も無責任。それが日本の現実である。

愚かな汗水

 1年前の9月、筆者は「福島原発はアンダー・コントロールの状態にある」と世界中に向けて叫んだ安倍首相の噓をこのコラムで指摘した。オリンピックの招致を焦るあまり、福島の現実など首相の頭からはすっかり消えていたのだろう。

 しかし当時、汚染水対策の切り札とはやされた原発建屋周囲の凍土壁建設は、大金を使ったあげく大失敗に終わろうとしている。今、凍らない壁を冷やすために四苦八苦して試みているのが、壁の中に氷を詰め込む作業だという。無意味に詰め込まれた氷は、新たな汚染水の源となる。

 オリンピック開催が決まってほどなく、疑惑の金銭収受で辞職した都知事が、最後に満場監視の議会で札束の模型をバッグに詰め込もうと汗水を垂らしていた哀れな姿を思い出す。氷を詰め込もうと必死の凍土壁作業員と汚れたカネを詰め込む元都知事の姿が痛々しく重なって見えるのは偏見にすぎるのだろうか。誰も彼もが、福島の人々の本当の苦しみや、それが日本にとってきわめて重い課題であることを忘れ、愚かな汗水を流しているのではないか。

「知事なんて誰でもいい」

 住民全員が避難を強いられた福島県内自治体の中で最も早く一昨年「帰村宣言」をして、村の再建に懸命の努力を続けてきた川内村。だが、今年8月1日現在、全人口2751人のうち、完全に帰村できたのはまだ499人にすぎない。

 それでも政府は10月1日に、原発に近い場所に残っている居住制限区域の規制を避難指示解除 準備区域に緩和することにした。住宅地や農地などの除染にめどがついた、という理由である。

 原発事故前は、村民は医療施設や商店などの生活インフラを隣町の富岡町に頼ってきた。原発立地地域に近い富岡は依然、無人の町。川内村の生活や産業は前途多難である。川内村の規制再編区域住民は合計330人弱。8月に行われた住民説明会では当然、激しい反発が出たが、「帰りたい住民もいる」として、村は区域再編受け入れに踏み切った。

「帰りたい」。「帰るのが怖い」。どちらも住民の本音である。晴れ晴れと故郷の生活を満喫するにはほど遠い環境で、村と村民は複雑な思いを抱えながらも、前に進むことになった。あと10年、あるいは30年後に、村民たちはどんな生活をしているのだろうか。

 9月11日で震災と原発事故から3年半。来月末には福島県知事選挙が予定され、早くも自公民相乗りの「争点隠し」が噂されている。親しい官僚から恐ろしい話を聞いた。「30年後には福島・浜通りからは誰もいなくなるよ。住民は老人ばかりだから。今をだまし通せばいいのだ。知事なんて誰でもいいってことよ」。こうして日本は亡びていくのかもしれない。

吉野源太郎

ジャーナリスト、日本経済研究センター客員研究員。1943年生れ。東京大学文学部卒。67年日本経済新聞社入社。日経ビジネス副編集長、日経流通新聞編集長、編集局次長などを経て95年より論説委員。2006年3月より現職。デフレ経済の到来や道路公団改革の不充分さなどを的確に予言・指摘してきた。『西武事件』(日本経済新聞社)など著書多数。

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(2014年9月11日フォーサイトより転載)