私は福島県精神科入院患者地域移行マッチング事業(以下、マッチング事業)に従事する佐々木瞳と申します。東日本大震災と福島第一原子力発電所事故は福島県の精神科診療に甚大な被害をもたらしました。
そして、震災から6年が経過した現在においてもその影響は完全には無くなっていません。今回は、日本の精神科診療の歴史的背景も踏まえた上で、震災後に始まったマッチング事業を介して福島県の精神科医療の現状をお伝えしたいと考えています。
【福島県の精神科事情】
福島県相双地区(相馬と双葉を併せた呼称)の北部に位置する相馬市は、明治初頭に社会的に話題となった『相馬事件』の地でもあります。
相馬事件は、1883年(明治16)年、特発性躁暴狂(統合失調症と考えられる)にかかり、自宅に監禁され、さらに東京府癲狂院(現在の東京都立松沢病院)に入院していた奥州旧中村藩主相馬誠胤(ともたね)について、忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が、「うちの殿様は精神病者ではない。悪者たちにはかられて病院に監禁された」と告訴したことに始まります。
1887(明治20)年には、錦織は東京府癩狂院から相馬を脱走させ、相馬は1892(明治25)年に自宅で亡くなります。しかし、死後1年して錦織が「殿様の死は毒殺」と告訴し、死体の発掘調査や主治医が拘留される事態にも発展しました。その後毒殺の立証まで至らず、逆に錦織が虚偽申告をしたとして1895 (明治28)年に有罪となったことで事件は終焉を迎えました。
この事件は海外においても精神病患者は無保護の状態にあるとして広く報じられました。一方で、国内では精神病者の監禁についての取締法の必要性が認識され、1900(明治33)年に「精神病者監護法」が成立し、「私宅監置」(したくかんち:精神障害者を自宅の一角に作った座敷牢に入れる。)にて、公安上の観点で病者を社会から隔離することがその後50年間も法的に認められたのです。
以降、昭和30年代に各地で精神科病院の建設が相次ぎました。そこでは措置入院制度を中心とした精神科病院への収容主義が是認され、十分な退院支援が行われずに収容隔離・長期の社会的入院者が横行する結果となりました。震災前の福島県相双地区の精神科診療はこのような文脈の延長線上に存在していました。
精神疾患を発症した患者は、自らの意思に反して、当時の国の政策により何十年もの精神科病院の長期入院を強いられていたのです。
【震災による県外避難】
しかし、平成23年3月11日の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故が状況を一変させます。3月12日から17日にかけて、東京電力福島第一原子力発電所から半径30キロ圏内に精神科病床を持つ病院が入院患者の移送を命じられました。結果として、相双地区の病院に入所していた患者のほとんどが、原発事故によって数年間全く縁故のない地域の病院に強制避難させられてしまったのです。
震災から数年経過した時点での避難患者の帰還状態は悲惨な状況でした。もちろん、避難先の病院の充実した支援体制で地域への退院を果たし、新たな人生を切り拓いていった患者もごく少数いました。
しかし、ほとんどの患者が「福島に帰りたい」という思いの一方で、声をあげることもできず、避難生活を続けていました。なかには、県外の避難先において死亡する方もいました。大きな理由の一つが、相双地区における精神科病床数の激減です。震災から6年経過した現在にあっても、震災前に相双地域にあった精神科病床1035床のうち現在稼働しているのは113床であり、合計840床もの精神科病床が震災後になくなっています。
【マッチング事業による取り組み】
震災から2年が経過した平成25年時点においても、10都道府県にわたる県外避難は続いていました。状況を改善するために、平成25年7月、福島県保健福祉部障がい福祉課の元で、「福島県精神科病院入院患者地域移行マッチング事業(以下、マッチング事業)」が始動しました。マッチング事業の拠点は、福島県立矢吹病院(以下、矢吹病院)です。
矢吹病院は、福島中通り県南地域に位置し、病床数が199の県内有数の病床数を誇る精神科病院です。これまでマッチング事業のスタッフは、県外各地で避難患者たちの「福島帰還」と「県内の居宅、施設への退院」を目指し、日々業務に当たってきました。
特にコーディネーターとして勤務していた看護師2名から成る「県外訪問部隊」の熱意と尽力は並々ならぬものでした。彼女らは県外避難先の病院へ直接訪問し、福島帰還希望の意向が明確なケースについて帰還準備の転退院調整を行ってきたのです。その文脈において、矢吹病院は公的病院の強みを生かし、他の県内の病院で受け入れが難しい困難ケースを積極的に受け入れ、率先して福島帰還を実現してきました。
もちろん全てがスムーズに進んだわけではありません。矢吹病院に転院し、福島帰還を果たした相双地区出身の精神科患者の多くは、幼い頃から過ごしていた相双地区に最終的に戻ることを希望していました。しかし、前述の通り、震災後、福島県相双地区においては精神科病床数が大幅に減少しています。現在、相双医療圏の人口111,945人(2015年 国勢調査)に対して稼働する精神科病床は113床であり、人口1,000人当たり1.0床の水準です。
これは、外来での精神科診療を中心とするアメリカやドイツ、イタリア、カナダなど (1,000人あたり0.5床程度の精神科病床 [2014年])に近い水準です。確かに、長期入院を柱とする日本の精神科診療は、「日本の精神科病床数は、世界に存在する全ての精神科病床数の2割を占めている」として、しばしば批判されることがあります。
しかし、病床数が他の先進国に近い水準まで低下しただけで、即座にそれらの国々と同じように外来ベースでの精神科診療が展開できるでしょうか。相双地区にはグループホームや入所施設といった地域として精神科患者をサポートしていくための仕組みが圧倒的に不足しています。
そのような現状においては、精神科患者の故郷への帰還を達成することは困難なのです。一方で、今回の震災がもたらした福島県の精神科診療への影響はマイナスばかりではありません。
県立矢吹病院では、症状が安定し、入院加療が必要ないケースについて、福島県内の退院先の環境の調整にも力を注いでいました。その中で、矢吹病院を退院した後に、地域で暮らし、就労をしたり、結婚したり、それぞれに自分の意思で運命を切り拓いてきた事例も少しずつですが増えてきています。
【現場で残された課題】
福島県における精神科患者の帰還支援と地域移行を調整する現場では、震災から6年が経過した現在も、課題が多く残されています。
まず県外避難を強いられた精神科患者の中には引き続き避難先病院で長期入院を余儀なくされているケースが存在します。主な理由は、患者家族から患者退院の同意が得られず、患者が入院を継続している状態を望んでいることです。
また、親族が全くいない場合もあります。そのため後見人といった本人の意思表示を支援する立場で、財産管理を補助する存在が重要となってきます。また帰還後の退院希望先に多い相双地区では、医療による重点的なサポートが必要な対象者もいるため、ハード・ソフト両面のシステム構築が急務です。
例えば、精神科診療所に併設したグループホームの建設が喫緊の課題です。生活の場で支援者が憎悪する症状を把握し、主治医による薬の調整を適切に促し、再入院のリスクを低減することができます。単身生活や自宅に戻って家族との生活を望む対象者のトレーニングのため、宿泊型自立訓練施設の新設も必要です。
また前述のように精神科病床が大幅に減ったことで、精神障害者を地域で包括的に支えるサービスの拡充も急務となります。グループホームだけでなく既存の訪問看護ステーションや訪問型生活訓練の機能強化、人材育成も含めて連携・協働の仕組みづくりが不可欠です。
さらに、もう1つの課題は、適切なケアを受けられていないことです。
65歳以上においては、精神科としての入院治療よりは、他の高齢者と同じような長期的なケアが必要なものも多く、介護保険の枠組みの中でのケアがより有効と考えられるような方も数多く存在します。
しかし、福島県は深刻な介護人材の不足に陥っています。福島県外の避難先から県内の高齢対象の施設に入所することを希望しても、多くの施設において受け入れ困難な状況が続いています。例えば、県外病院から県内(特に相双地域)の特別養護老人ホームへの入所を希望した際には、常に150~300名の待機者がおり、入所までの年月は全く検討がつかない様相です。
【おわりに】
平成25年のマッチング事業開始前から高野病院(広野町)はじめ雲雀ケ丘病院(南相馬市)、舞子浜病院(いわき市)、四倉病院(いわき市)などが精神科患者の帰還に取り組んできました。そのような自主努力の結果、131人(全体の16.6%)が福島県に帰還を果たしています。さらに、平成29年3月時点でマッチング事業全体の対象患者789人のうち135人 (全体の17.1%)がマッチング事業の取り組みによって福島県への帰還を達成しました。その結果、県外避難を継続しているのは現在98人(全体の12.4%)まで減少しています。
マッチング事業の取り組みは、「原子力災害の後に精神障害のある方々を地域移行させる」という世界的に前例のない試みです。そのため、今回の成果を評価する一定の方法は確立されていませんが、スタッフとして関係者の努力を間近で見てきた私の想いとしては、マッチング事業は精神科患者の帰還において一定の成果を上げてきたと考えています。今後も県外に残された患者の帰還を達成するためにも関係者の継続的な努力が求められています。
しかし、現在マッチング事業の存続に暗雲がたち込めています。この事業はこれまで復興庁の補助(補助率10割)にて実施されてきました。しかし、様々な事情もあり、この4月から人件費について現場のコーディネーターの報酬単価が大幅に減額する決定が下されたのです。
さらに、今後段階的な事業縮小の末に、事業の完全な廃止が計画されています。県外で避難を継続している98名の精神科患者においては、75歳以上が27名、また、末期がんを患っている方もいます。これらの患者においては特に一刻も早い帰還が実現されるべきですが、現実はとても厳しい状況です。
「ふるさとに戻りたい」という精神科患者のごく自然な気持ちを受けとめて、実現させていくことは非常に重要なことではないでしょうか。福島県内外のみなさんに「精神科患者の福島帰還の現状」を知っていただき、この現状が改善するための動きが広がってほしいと強く願っています。
【参考資料】
一般社団法人 支援の三角点設置研究会(2015).東日本大震災による原発事故後の精神科病院入院避難患者の帰還支援のための住居等支援
(2017年3月31日「MRIC by 医療ガバナンス学会」より転載)