緑が深い峠道をぬうように抜けると、携帯電話が通じないのを忘れてしまうほどの澄んだ空が待っていた。出迎えは、満開のツツジ。氏神様のお堂が水を張った田んぼに映り、早苗を運ぶ軽トラの音が聞こえる。
人気アイドルグループ「TOKIO」のメンバーらが暮らしたDASH村から、南にわずか3.9キロの福島県村。福島第一原子力発電所から約25キロに位置し、原発事故で避難指示が出された12市町村のうち、最も小さな村だ。
原発事故による避難指示が解除されてから、2度目の田植え期を迎えた5月下旬、山間部の地区の田んぼには、近隣市町村から学生や会社員ら40人近くが田植えイベントに集まっていた。
「ちょっと集まり過ぎかも...」
イベントを企画した、地域づくり団体「創造舎」の代表理事・下枝浩徳さん(32)は苦笑いした。告知は最小限、地元の人向けにチラシを配るにとどめ、参加者を10人程度の少人数に絞るつもりだったからだ。
村にとって最適な復興のやり方を探る。そのために今回は、「大規模」になるのを避けたかった。というのも、下枝さんには苦い経験があった。早急に結果を求め、規模を拡大していく"都会のやり方"をしたことで、震災直後に失敗していたのだ。
下枝浩徳さん
田植えをする学生と、稲の植え方を指導する地元住民。田植えを体験した筆者が「腰が痛くならない方法は?」と聞くと、地元住民は「手で植えないこと」と答えた。通常は機械で植えており、手で植えることはほとんどない。
■"盛りだくさんイベント"で疲弊する被災地
葛尾村で育った下枝さんは、東日本大震災の後に福島にUターンした出戻りだ。「何もなくて、つまらない」と高校卒業と同時に福島を飛び出し、首都圏の大学に通った。
ところが、大学時代にのめり込んだのは地域づくりだった。本当は世界中を旅して回りたかったのだが、学生なのでお金はない。そこで、地元での交流体験が必須だが、格安で日本各地に行けるという団体に参加した。活動を続けるなかで、訪問した土地の良さを生かす方法を考えることが楽しくなっていた。日本だけでなく海外向けの団体にも所属した。
「みんなとブレイン・ストーミングしたり議論したりして、訪問先の地域の課題を解決する方法を考える。イケてると思っていたし、それなりの実績も出しました。自信があったんですけどね」
しかし、地元福島ではうまくいかなかった。
福島に戻った下枝さんは、震災の翌年に葛力創造舎を立ちあげ、被災地ツアーの受け入れを始めた。1回あたり何十人というツアー客を地元に案内。「俺がみんなを引っ張るんだ」と張り切りメンバーの尻を叩いたが、それがメンバーだけでなく、地元住民の負担にもなっていた。
「手間ばかりかかって疲れる。儲かんないし」
約60人の視察ツアーを終えたある日、手伝いに来ていた地元住民のひとりが、下枝さんに訴えた。イベントの度に、もてなしの手料理づくりなどで駆り出される。そのため、手伝いで土日も休めない状態を引き起こしていた。
東京のように住民が多いわけではないから、交代できる人もいない。ツアー客には楽しいひと時を提供できていたかもしれないが、イベントが増えれば増えるほど、被災地は疲弊した。
「これでは、誰のための復興なのかわからない」
このままのやり方では、長くは続かないのではないかと感じた瞬間だった。
葛尾村広谷地地区。(2016年9月撮影 葛力創造舎)
■金銭では解決できない「屈辱」「むなしさ」
「もう東京のやり方はしなくていいべ」
村民のための復興をしよう。そう決意した下枝さんは原点に戻り、地元の人たちの話を聞いて回ってみた。すると、机上で考えていただけでは見えてこない、復興に対する住民の不満が浮かび上がってきた。
例えば、葛尾村と同じように原発の20キロから30キロ圏内に位置し、避難指示が出された川内村。県内の郡山市にある仮設住宅に避難していた人は、お金を出してコメや野菜を買うことに不満を持っていたという。
「東京だったら、『それのどこが不満なの?』って思いますよね。でも、よく聞いてみると、不満のあった方たちは、川内村に住んでいたとき、自分で作ったコメや野菜を食べていたんです。
それが、原発事故によって他の都道府県の品物を、スーパーの価格で買わなくてはいけなくなった。補償も打ち切られ、生活も困窮していました」
他の人の作ったものを食べなくてはいけないという屈辱や、働かずにいることへのむなしさなど、様々な思いも入り混じっていた。単純に、金で解決できるというものではなかった。
原発事故は、田畑や家屋といった目に見えるものだけではなく、思い出やプライド、人とのつながりなど、目に見えない、金銭には代えられないものを住民から奪った。それを、「利益」や「効率」といった価値観で片付けようとするから、人は憤り、悲しむのだと下枝さんは気がついた。「復興には、見えないものの価値を取り戻すことが必要だ」と感じた。
郡山市内にあった川内村の仮設住宅で運用されていた野菜などの直販所。「もし野菜を作ってたらスーパーみたいに高く売らない」という住民のアイデアで実現。仕入れから販売までの運用を住民が担当した
■「なぜ、DASH村がなくなるとあなたは悲しいのか? それは...」
そんなある日、近隣の市議から葛尾村のことで嫌味を言われた。
「どうせ葛尾村に復興予算をつけても、きっと廃村になるから意味がない」。
葛尾村の被災前の人口は約1500人。2016年6月の避難指示解除後に村に戻ったのは150人で、将来も約300人までしか増えないという試算もある。
震災前からの過疎地。「人口も少なく、復興効率が悪い...だから存在する価値がないと言われたみたいだった」と、下枝さんは振り返る。
「しかし、それで本当に良いのか?」
縄文時代にまで歴史をさかのぼることができる葛尾村には、DASH村のように、山や田畑はもちろん、古民家、湧き水などが村のあちこちでみられ、"田舎そのもの"の価値がそのまま残っている。出逢えば「お茶でも飲んでいけ」と屈託のない笑顔で迎えてくれる温かい村民もいた。
▼「葛尾村の風景」画像集が開きます▼
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「利益がでない」「効率が悪い」からと、見えるものの価値だけでふるさとを簡単に捨てることなんてできないと、下枝さんはDASH村を例にとって説明した。
「DASH村だって、TOKIOが暮らせなくなったから閉鎖するとなったら、『え〜〜〜っ!』って思うかもしれませんよね。それは、小さい時からテレビで見てた村のことを、みんなが覚えているからではないでしょうか。 その思い出は、村の見えない価値だと思うんです。
俺たちにも、葛尾村の見えない価値が、心の中に残っています。効率が悪いと簡単に捨てられる世の中って、良いものでしょうか。 効率を重視してビジネスを進めたから、サブプライム問題のようなことが起きたのではないでしょうか」
田植えイベントには地元からも5人の大人が参加。手際よく苗を配る女性もいれば、普段は田んぼに入ることがないという住民もいた。
■都会の「成功」法則は、田舎には合わない点も...
しかしながら、市議の嫌味は、田舎の生きる道を考え直す良い機会にもなった。
たとえ300人の村でも、生き抜ける知恵やノウハウを作り上げることができれば、それは被災地に限らず、日本中の人口減少に悩む地域にとっても、参考になるかもしれない。復興では、もともと1500人だった人口を5000人に増やすことが求められているわけではないのだ。
下枝さんらは、「村ならでは」を地域資源と考え、活用する方法を模索した。小さなコミュニティーは「ムラ社会」などと、閉鎖的な意味合いで批判されることがある。一方で、「結(ゆい)」と呼ばれる住民による共同作業などを通じて人間関係が深まることもあり、地域のなかで「自分が必要とされている」と個人が感じる度合いは都会と比べて大きい。
「ひとりひとりが、周りから求められること」。村の特性をメリットとして伸ばすことを考えた。川内村では、住民たち自身が発案し、仮設住宅内で野菜などの直売所をスタート。ひとりひとりが役割を持つことで、やりがいを持って取り組むようになった。
「地元に戻る人、新しく移住する人が求めるのは、自然の豊かさだけでなく"人の温かさ"もあるのではないか。都会の大企業で『大勢いる勤め人の1人』として働くよりも、『◯◯さんとこの2番目のセガレの△△』と、個人として自分の存在を認めてもらえるような村の暮らしのほうが、ホッとする人もいるのかもしれない」
田植えイベントには地元から5人の大人も参加。手際よく苗を配る女性もいれば、普段は田んぼに入ることがないという住民もいた。田んぼを提供した松本邦久さんは、植えられた苗を見て「やっぱり植わってるってのはいいもんだな」と、目を細めた。
窮屈さと温かさのバランスを取りながら、住民がやりがいを生みだせる事業がつくれないだろうか。仮設住宅の直売所で手応えを得た下枝さんたちが出した答えは、「葛尾村で田んぼをやる」だった。
田んぼは、葛尾村の住民の原風景とも言われている。村役場の担当者によると、事故前の470世帯のうち半数以上の287世帯が稲作に携わっており、コメ作りのノウハウは住民の中にある。
他方、葛力創造舎はこれまでの福島での活動から、コメから日本酒や餅などの新しい商品を生み出し、事業化してきた実績があった。今度は葛尾村にそのノウハウを応用する番だ。
だが、決して葛尾創造舎が前に出るつもりはない。ひとりのスーパーマンが頑張るのではなく、住民たちが一丸となってひとつの事業に取り組むことが、小さい葛尾村の生き残りにつながると考えたためだ。
「小さな村では、まとまって何かをするということが成功のポイントになってくると思うのです。1軒だけが成功しても、他の人が成功しないならば、結局村全体がだめになってしまう可能性も大きいからです。
もし、人がたくさんいる東京だったら、東京の中だけでも大勢のお客さんに対して商品やサービスを提供できます。複数の企業が成功すれば、沢山の人の暮らしは回るでしょうし、企業ごとの競争も生まれます。
しかし、村ではそもそも企業数も多くありません。村の中にお客さんもいないので、お客さんは自然と地域外の人になります。
葛尾村は多くの世帯が農業を営んでいます。ただし、農業で成功しようとしても、1軒の農家だけで商品開発のような事業をやっていたのでは、その1軒が幸せになるだけですし、規模も知れています」
■「バーチャルふるさと化」が田舎の生きる道か
さらに、葛尾村の中だけでなく、小さなコミュニティー同士をつなげることを考えている。少ない人口でも、周辺地域と相互協力することで、足りない人材・資源を補える。周辺地域に住んでいなくても、たまに村にやってきて手伝ってくれる人が出てくるかもしれない。
「DASH村にも、大工の棟梁や煎餅づくりの名人などが、他の地域からやってきていましたよね。今でももし、DASH村が手伝ってくれる人を募集したら、もしTOKIOが村にいなくても応募する人はいるのではないでしょうか。それは、テレビの思い出が、仮想的に自分のふるさとのように思えるからかもしれませんよね。
ほかの田舎にも、そういう"バーチャル"住民が出てくればいいと思うんです。『俺、田舎が2つあってね。ひとつはリアルに生まれ育った場所。もう一つは葛尾村』という感じで」
将来の夢はDASH村のように、多くの人々のふるさとになること。そのためにはまず、村の人たち自身が楽しみ、ノウハウを身につけることのほうが先だ。以前のように途中で息切れしないよう、住民のペースで学べる、小規模なイベントから始め、次に進めていければいいと考えている。
TOKIOはDASH村で、大根や白菜をつくるところから農業を学び、トウモロコシ、トマトと少しずつ広げた。米は品種改良を重ね企画開始から14年後にようやく、一等米が作れるようになったという。
「葛尾村も、ひとつひとつ広げていければいい」と下枝さんもいう。
「長く続いてきた村です。まだまだ、やれることはたくさんありそうですよ」
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