福知山線の脱線事故から10年、生かしていただいた幸せを実感した瞬間

事故に遭遇したことに背中を押されて、葬儀司会者として歩み始めて6年4ヶ月。これまで尊い1000人以上のお命を送らせて頂きました。
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YOSHIKAZU TSUNO via Getty Images
AMAGASAKI, JAPAN: Rescue workers and self defence force soldiers search for injured passengers from a crashed commuter train at Amagasaki city near Osaka, western Japan 25 April 2005. At least 37 people were killed and more than 220 others injured in a train crash 27 April in western Japan, police ad firefighters said. AFP PHOTO/Yoshikazu TSUNO (Photo credit should read YOSHIKAZU TSUNO/AFP/Getty Images)

あの事故車両に乗り合わせた日から、もうすぐ10年が来ようとしています。

無我夢中で駆け抜けた年月、あっという間でした。あの日のことはまるで昨日のことのように、鮮明に脳裏に甦ってきます。 

◇◇◇◇◇

最寄り駅の宝塚から同志社前行きの福知山線に乗車しました。

その頃、週に何度かは仕事のために大阪に向かっていました。婚礼の司会の仕事や その打ち合わせのためにです。いつも時間がなくて1両目、2両目に駆け込み乗車するのに、あの日だけ、たった1日、何故、あれだけ時間に余裕があったのか。今でも不思議でたまりません。

4月も後半に入り、暖かかった。真っ青な空が気持ちよかった。乗車したのは6両目。一番前の座席に座りました。そして、私はいつものようにマネージャーに仕事の連絡メールをしました。

ふと気がつくと行き先とは逆の方向に向かって電車が走ってた!と思うと電車はまた、尼崎方面に向かって走り出しました。まるでジェットコースターみたいに。こわい!やめて!ジェットコースターも怖くて乗れないのに、電車、やめて!!

間もなくとてつもない衝撃!

その時が沢山の尊い命が奪われた瞬間だったなんて、思いもしませんでした。

マンションに2両目がぶつかった時(当時は予想もしませんでしたが)、その衝撃で後ろから人の波が押し寄せ、私が座っていた一番前の座席の所に人がてんこもりになりました。私もいすから投げ出されましたが、すぐに皆が手を貸しあい、助け合いました。でも押し潰された人の中にはうちどころ悪く、いつまでも起き上がれないで苦しそうにあえいでいた人も何人かいました。

その時、私は、この電車はテロかなんかで爆弾をしかけられ おそらくこのまま死ぬんだろうと思いました。それほど、すごい衝撃でした。人というのはこんなに簡単に死ぬんだ。命はこんなに理不尽に奪われるものなんだと、震えがとまりませんでした。そして頭にまっさきに浮かんだのは3人の子供達でした。

けれど幸い、その後は何事もおこりませんでした。何としてでもこの車両から逃げ出さねばと、私はへしゃげた連結部分の扉を他の乗客と足でけって5両目に移り、外に出ました。

線路に立って見上げた空は真っ青で「生きている」ことを実感しました。助かった!

けれども次に見た光景は、そのさわやかな青空にはとても似つかわしくない、それはそれは恐ろしい、地獄の光景でした。2両目の車両は、くの字に曲がってマンションにペチャンコになってはりついており、運びだされる方達は血まみれでした。

私はすぐにマネージャーにまたメールをしました。「何がなんだかわからない とにかく周りに死んでる人がいっぱいいる。でも仕事にはなんとしてでも行くから。。。」

私は瀕死の状態の方々を横目にその場を立ち去りました。逃げました。これが、それから私自身との心の戦いとなりました。

醜い言い訳ですが、中学生の頃から芸の道を志し、少しずつ仕事を始めていた私は、「この世界は親の死に目にも会えない」と叩き込まれていたから、這ってでも仕事にいかなければと思ったのです。

今から考えたら、本番(業界用語で披露宴やイベント当日の事)ではなく、打ち合わせだったので、事情を話せば日延べも出来たはず。あの場で何らかの力になれたはず。でも仕事に行くことしか頭にありませんでした。今、思い出しても、なんでその場にとどまらなかったのか悔しくてなりません。

ヘリコプターの騒音と土煙、救急車のサイレンの中を、よたよたしながら、しかも止めどなく流れる涙をぬぐうこともなく、駅を探して歩き続けました。霧に煙る中を歩いていました。でも、これは実際には霧ではなく、私の心の中の霧だったみたいです。いつ思い出してもあの時は、霧のなかを確かに歩いていたのですが。

やっと尼崎駅にたどりつきました。そして、仕事にも穴をあけずに行けました。

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一番辛かったのは、高校生や大学生といった、前途ある若い命が失われたことでした。

息子はその春、同志社大学に入学しました。同志社大学では亡くなった学生さん、重傷を負った学生さんが多く、息子は2本前の同じ電車で大学に向かっていました。同志社大学は1両目、2両目を降りた所が一番スムーズに大学に向かえるので、息子が事故に遭っても不思議ではありませんでした。

夢と希望に溢れ、そして、いっぱい緊張しながら、通い始めた矢先のことです。それなのに、何で入ってすぐ、電車なんかに命を奪われなくてはならなかったのか。

一番最後に助け出された同大学のH君は、両足を切断されたと、知り合いの報道の人から教えてもらいました。聞いて思わず号泣しました。悔しいと同時にまた、罪悪感にさいなまれました。私なんかが生きててよかったん?

私は頸椎捻挫と打撲で、確かにあちこちあざはありましたが、それだけです。しばらくはTVで事故の救助の様子をみながら泣き、夜中になると涙がとまらなくなりました。

しばらくすると、急に痛みが襲ってきました。首の捻挫の痛みも、心の動揺が大きすぎて感覚が麻痺していたようです。痛みが少しおさまるまで、JRが休業補償を出してくれるというので、その時すでに入っている仕事以外はストップしてもらって、しばらく治療に専念することにしました。3ヶ月のお休みを頂きました。

この間、通院治療しながら、負傷者の方へ何かしらお役にたてないかと思い、ヘルパーの資格をとったり、ご遺族様の精神的な苦痛を少しでもやわらげるお手伝いはできないものかと、グリーフ(悲嘆)と向き合う講習会などを探して参加したり、改めて自分と向き合い、私の生きるべき道を考えさせてくれる「大切な時」となりました。

そして 事故から3ヶ月目、私は「朗読うぃっしゅ」を司会者仲間と立ち上げ、命の大切さを伝える朗読と、事故を風化させないようにと、語り部活動を行うことになりました。2005年7月7日の七夕の日に、大阪府吹田市の小学校からお声をかけて頂いたことから、活動を始めることになりました。子供達は本当に素直で、結構やんちゃな6年生だったんですが、私が「事故の車両に乗っていました」と話をはじめると、それまでめちゃくちゃ騒がしかったんですが、水を打った様に静まり返りました。真剣に話も朗読も聞いてくれて、泣いてくれた子もいっぱいいました。

子供達の純粋さに触れて、こちらの方が励まされ、やみつきになり、それからお声をかけて頂くままにあちらこちらの小学校、中学校、高校を回りました。朗読が戦争の題材が多かったので、反戦集会等にも行かせて頂きました。そうしているうちに、今までに約150ヵ所以上を回らせて頂くに至ったのです。その間、子供達からもらったお手紙はおそらく千通を超えたと思います。これは、私の一生の宝物として大切にしまってあります。

活動の最中、子供達の自殺が多発した時期があり、その時は必死で訴えました。「生きたくて生きたくてしょうがなかったのに、散っていかざるを得なかった命が沢山あるんだよ!死なないで!あなた達の命は奇跡の命。今 生きてると言うことは当たり前の事ではなく奇跡なんだよ!お願いだから死なないで。辛い時はお父さんお母さんに言えなくても先生や大人の人に相談して!」

私の言葉が、多少なりとも伝わった時もあったかと思います。ある高校生から「死にたいと思ってたんですが、五十嵐さんの話を聞いて死ぬのやめました」との一通の手紙を先生から手渡された時は、私なんかでも役に立てたんだ!と、生かして頂いた幸せを実感した瞬間でした。

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事故から6ヶ月後 示談の交渉をしたいとJRに申し出ました。

示談の決意をしたのは、治療を今後続けても 痛みが完全になくなることはないのではと思ったこと。むちうちにおいて病院で投薬やリハビリを受けると少しは良くなるけれど、少し待つとまた戻り、一進一退を繰り返す状態を「症状固定」というそうですが、まさにそういう状態だったこと。病院に行くのが煩わしくなって来たこと。そして一番は、信頼の置ける担当さんではありましたが、「JR西日本」という会社と早く決別したかったことでした。「交通事故においてむちうちの負傷をおった相場の補償」で示談が成立致しました。

示談したあとはこれからの自分の生き方について、さらに真剣に向き合いました。悲しみの中にいる遺族と、その悲しみを共有して、癒す何か出来ないだろうかと模索するようになりました。

そんな時、知り合いからかかってきた1本の電話。

「葬儀の司会者がたりないねん!婚礼司会者で葬儀司会者になる人いないかな?」

本当にタイムリーでした。それまで何度かお声をかけて頂きましたが「絶対無理!」とお断りしていたのに、その時は、即座にOKしました。

勉強・研修を経て、2008年12月 葬儀司会者としての1歩を踏み出すことになったのですが、しゃべることは出来ても葬儀のことはにわか勉強。殆んど何も解らないに等しく、新しく踏み入れた世界は奥が深すぎて、その厳しさ、難しさは想像をはるかに超えたものでした。せっかくたどりついた道なのだからと、しばらく無我夢中で走りました。

事故に遭遇したことに背中を押されて、葬儀司会者として歩み始めて6年4ヶ月。これまで尊い1000人以上のお命を送らせて頂きました。

当初願っていた「悲しみを共有し癒して差し上げることができないのか」。今はそんな大それた考えはなくなりました。察することはできても、本当の悲しみは当事者にしかわかりえない。しみじみ思う今日この頃です。けれども、せめてあの悲惨な事故に遭遇した私だからこそ、出来る送り方がきっとあるはず。そう考え、探し求めながら日々、歩んでおります。

そして、これまでの葬儀の仕事を通じて学んだことは、人の一生、最後は、物やお金を残すことが大切ではなく、

どれだけ人を残せるか、

人と人の絆をどれだけ残せるか、

思い出をどれだけ人と紡ぎ、それをどれだけ残せるか、

それがいかに大事か、

そして、今日を生き切り、最後まで一生懸命、生き切ること。それが大切だということでした。

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この事故をきっかけに、本当に沢山の出逢いがありました。

始まりは不幸なことでしたが、私にとって、辛くとも幸せな10年でした。マイナスをプラスに変える生き方を学びました。これからもこの大きな体験を忘れることなく 前だけを向いて歩いて行きたいと思っています。

最後にこの事故でお亡くなりになられた方の安らかなること。

ご遺族ご親族の皆様が、少しでも癒される日が参りますように。

怪我や精神的な負担から未だ苦しんでいらっしゃる方が早くお元気になられることを、心からお祈りしています。

もうまもなく10年目の「あの日」がやって参ります。