10年前の4月、鈴木順子さんは、30歳になったばかりだった。兵庫県西宮市にある新興住宅街で、両親と暮らしていた。2005年4月25日の朝、設計技術の職業訓練のため、自宅から、大阪に向かうJRの電車に乗った。
(C)時事通信社
2005年4月25日午前9時18分、順子さんの乗った快速電車は、尼崎駅の手前のカーブで信じられないスピードを出し、曲がりきれずにマンションに激突した。順子さんの乗った2両目は、マンションに巻きついて折れ曲がり、アルミ缶のようにつぶれた。
マンションに巻きついているのが2両目。(C)時事通信社
107人の死者と562人の負傷者を出したこの事故で、順子さんは事故から5時間後、担架に乗せられて車外に助け出された。医師が応急手当をしようと口を開けると、大量のガラスの破片がこぼれ落ちた。両親が病院に駆けつけると、人工呼吸器をつけて集中治療室に横たわっていた。
「もって3カ月」と医師は言った。呼んでも反応のない順子さんの体を、母もも子さんは必死でさすり続けた。「陽気な心が、いい遺伝子のスイッチをオンにする」という村上和雄・筑波大名誉教授の言葉を信じ、病室で家族と冗談を言い合い、子供の頃に好きだった本を読み聞かせた。
5カ月後、順子さんが事故後初めて声を上げた。もも子さんが「お母さんって呼んで」と呼びかけると、小さな声で「お母さん」と答えた。1年後、順子さんは自宅に戻ることができた。
2009年4月5日、兵庫県尼崎市でのイベントで
順子さんは「高次脳機能障害」と診断された。事故で頭部に受けた衝撃で、記憶力や言語に障害が残る。ほんの数分前におきた出来事や会った人のことを覚えていない。事故の記憶もなくしており、「私、なんで車椅子なんやろか」とたびたびつぶやく。
映画「村上和雄ドキュメント SWITCH 遺伝子が目覚める瞬間」の一場面
事故から1年半がたち、リハビリで親子で水泳を始めた。しばらくはもも子さんやインストラクターにつかまって浮いているのが精一杯だった順子さんだが、1年ほどたってからは、支えなしで25m泳げるようになった。
2009年7月15日、兵庫県西宮市の自宅で
画用紙に絵を描いたり、楽器を鳴らしたりして脳を刺戟する「アートセラピー」。もも子さんは、つきっきりで順子さんの面倒を見てきた。腰を痛め、外出がままならない時もある。終わりのない介護の先行きに絶望的な気分になることもあるが「生きてるだけで、幸せなんやから」と思い直す。
2015年3月13日、兵庫県西宮市の自宅で
事故から10年。順子さんは40歳になった。作業療法士の力を借りて料理もできるようになった。「できるようになったことがすごい」と、67歳になったもも子さんは目を潤ませる。
2015年4月19日、兵庫県川西市で開かれた負傷者らのシンポジウムで、もも子さんは客席から以下のように10年を振り返った。
「爆撃を受けたような10年間でしたが、苦悩の中から大事なものを掴み取って、いろいろな助けを得ながら今の自分たちがあるということに感謝します。これからも『記憶にございません』という娘と一緒に生きて行くんですが、娘は忘れてはいけないことを忘れてはいないし、コミュニケーションは取れる。助けられて、命があってよかった。10年たって、純粋な感謝の気持ちとして受け止められるようになりました。先生も『脳のしわも増えてきたし、これから回復していくだろう』とおっしゃってますので、回復を信じて、これからも進んでいきたいと思います」
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