福知山線脱線事故から9年、現場保存をめぐる動きはいま

乗客ら107人が死亡、562人が重軽傷を負った2005年の福知山線脱線事故から、4月25日で9年となる。時の経過とともに、沿線から事故の記憶が確実に薄れていく中で、惨事の記憶を将来に向けてどう残していくのか、新たな動きが始まりつつある。
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時事通信社

乗客ら107人が死亡、562人が重軽傷を負った2005年の福知山線脱線事故から、4月25日で9年となる。時の経過とともに、沿線から事故の記憶が確実に薄れていく中で、惨事の記憶を将来に向けてどう残していくのか。新たな動きが始まりつつある。

■慰霊の場へ、事故現場整備の動き始まる

2005年4月25日午前9時18分、通勤、通学客らを乗せ、宝塚から京都府京田辺市へ向かっていた福知山線(JR宝塚線)の快速電車(7両編成)が、兵庫県尼崎市のJR尼崎駅手前でカーブを曲がりきれずに脱線、運転士を含む107人が死亡、562人が負傷した。

電車が衝突した分譲マンション「エフュージョン尼崎」は、事故後にJR西日本が区分所有者らから買い取り、2006年にJR西日本が100%の所有権を取得した。現在、人は住んでおらず、1両目が突っ込んだ地下駐車場や、2両目が巻き付くようにぶつかった1、2階部分などが残っている。一方で風雨にさらされて外壁がはがれたり鉄筋がさびたりするなど、老朽化も進んでいる。

JR西日本の被害者担当部署は、遺族らから個別に意向聴取を続けていた。その動きが表面化したのは事故から8年以上たった2013年11月だった。遺族、負傷者向けに説明会を開き、事故現場を「慰霊、鎮魂のため」「安全構築の原点として」保存することを表明した。

出席者によると、JR西日本の真鍋精志社長はその席で、事故現場の保存と整備は「加害者としての責務」とした。慰霊施設や献花台などを設け、ここで事故があったことを伝える碑のようなものも設けるという。

「いつまでという期限を設けることにはなりませんが、検討は進めていかねばならない」という方針も伝えたが、先鞭をつける形で2014年春をめどに、隣接の土地に駐車場などの整備を始めるという。

具体的には、「マンションを見たくない」という遺族に配慮する形で、痕跡の残る2階付近までを保存し、囲いや植栽、丘などで覆った4つの案を示した。すべてを囲いで覆う必要性から、マンション全体の保存は現実的でないとした。

脱線車両の残骸の一部は現在、大阪府吹田市の研修施設に暫定的に保管されており、これを事故現場に移設することも視野に入れて、スペースに余裕を持たせて整備を進めるという。

■事故から9年もかかったのはなぜか

JR西日本にとっても、事故現場の整備は以前からの課題だった。実は事故から3年後の2008年、当時の山崎正夫社長が「今年中に意見集約を」と非公式の場で述べたことがあったが、社内の被害者担当部署が猛反対して撤回した。

手つかずのまま残さざるを得なかったのは、事故現場の今後について、遺族の間で意見が180度割れていたからだ。「事故を記憶できる場所に」と完全保存を望む遺族もいれば、「あのマンションがなければ妻は死なずに済んだ。完全に更地にすべきだ」と話す遺族もいた。

説明会に出席した遺族らからは批判が集中した。質疑応答では「私が死ぬまでに整備してほしい。時間がかかりすぎる」「もう8年もたっている」と、意見集約を繰り返したJRの慎重姿勢にも批判が集まった一方で「時間をかけて、よく考えてほしい」という正反対の不満が出た。部分保存の方針についても「小さすぎる。回りに見えるから風化しない」「汚いものにふたをされたような気持ちになった」と批判し、全面保存を支持する意見も複数出た。「安全構築の原点というなら、ふさわしい中身と考え方を出さないといけない。原点というからにはそれなりの広さと重みがいるのではないか」など、会社の姿勢に疑問を呈する質問も出され、意見集約の難しさを象徴するやりとりが交わされた。

真鍋社長は2014年中に4案からさらに絞り込んで被害者らに提示する意向を明らかにしている。

※初出時、事故が起こった時間を「午後9時18分」と誤って記載しておりました。お詫びして訂正します。

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