「旋風二十年―解禁昭和裏面史」という本をご存知でしょうか。
敗戦から4か月後の昭和20年12月、この本が発刊されると、たちまち売り切れ続出、それが、翌年、翌々年まで続く、大ベストセラーになりました。
毎日新聞(戦時下は東京日日新聞)社会部長だった森正蔵氏が部下の新聞記者とともに、一連の昭和の戦争に連なる動きを詳細に記したものです。
当時、どれもこれも国民にとっては、初めて聞く話ばかりで、驚きを持って読まれました。
例えば、これまで国民は、昭和6年の柳条湖事件について、南満州鉄道を爆破したのは中国軍の仕業だと信じていました。だからこそ、国民は、満州の日本人を守るため陸軍の増派を支持したのです。
しかし、この本には、それが中国軍の仕業に見せかけた日本の関東軍の謀略であったことが記されています。
「爆破されたというレールは下り大連行線路の東側の継目で1メートルばかり間隙ができていたというのである」(同書から引用)。しかし、爆破は実際に起こったものの、その後、列車はなんなく、通過しており、「1メートル切断されたレール上を列車は故障なく無事通過するであろうか」(同書)とあります。
真崎甚三郎大将の「満州事変は柳条湖の鉄道爆破で火蓋を切ったわけだが、ある陰謀でやったわけだ」(同書)との発言も紹介されています。
当時、日本の新聞は「今回の日華不祥事件が中国側の計画的暴挙に発端したることはすでに動かすことの出来ぬ確証が挙げられている」と大々的に報道していました。
「満州にいる日本人を守れ」との大合唱の中、自衛権発動の名の下で、満州国建設がなされました。それが、国際社会から非難され、昭和8年の国際連盟脱退と続き、日本は戦争への道をひた走っていきました。
昭和6年、大本営陸軍にあった記者クラブで、「柳条湖事件は、関東軍の謀略である」ということを陸軍は認めていたとの証言があります。当時、言論統制は戦中ほど厳しくなく、新聞社が決断すれば、真実を報道することも可能だったとの見方もあります。各社は国益を考えて、報道を自粛したという面もあったのではないでしょうか。
さすがに、この本には、そのいきさつには触れていませんが、著者の森氏は内心忸怩たる思いがあったのだと思います。
言論統制で書けなかったもの、書こうと思えば書けたが当時の「国益を守れ」との空気で自粛したもの、売れ行きを考えて記事の論調を変えたもの、いろいろなケースがあったのだろうと想像されます。報道が歪められた理由は、当局のみならず、新聞社にも責任の一端があったのだと思います。
著者の森氏は初版の「序」の中で、「抑圧された言論、歪められた報道は、われ等が現にそのなかで生活して来たわずか20年の歴史を全く辻褄の合いかねるものとしている」と記し、悔しさを吐露しています。
この悔しさをバネに、敗戦後、実質執筆期間1か月の短期間でこれほどの力作「旋風二十年」を誕生させたのだと思います。新聞記者の魂の叫びではないでしょうか。
歴史に「もしも」はありませんが、もし、当時、南満州鉄道爆破事件は関東軍の謀略であると報道されていれば、その後の日本の歩みは異なっていたかもしれません。
「情報を制限し空気さえ作り上げれば国民は一気に極端な方向に動く」――。これが、70年前の戦争の貴重な教訓ではないでしょうか。
報道の自由の大切さは強調しても、強調しすぎることはありません。
翻って今の政権に目を転じると、果たしてこの教訓を正しく胸に刻んでいるのか、大きな疑問と不安があります。
私が尊敬する保坂正康氏が、「旋風二十年」の復刻版で解説を書いています。
「この書はかつて、『言論の自由』をもたなかった時代の新聞記者による報告の書であり、新聞記者たちの自戒と自省の書なのである」とあります。
この記者たちの魂の叫びを、戦争の記憶が薄れる今こそ、子どもたちに引き継がなければなりません。
*引用は2009年再発行された復刻版「解禁 昭和裏面史 旋風二十年」(筑摩書房)