社会環境の変化により、従来の私的問題が社会問題になることが少なくない。昔の介護は、本人や家族の私的問題だったが、高齢化の進展に伴い介護施設が増加、2000年には公的介護保険制度が導入されるなど、介護を社会全体で支える動きが進んでいる。
子育ても、従来は家庭で営まれる私的行為であり、共働き世帯は「保育に欠ける」という理由から保育所が設置されてきたが、共働き世帯が増加した今日、保育所整備は普遍的な子育て支援策になっている。
私的な問題の場合、第一には個人が自分自身で解決することが求められる。すなわち「自助」である。それが社会全体の問題になれば、社会制度として誰もが使える「公助」による対応が必要だ。
しかし、厳しい財政状況が続く日本においては、全ての社会問題の解決を「公助」に求めることには限界がある。また、社会には子どもの「いじめ」や高齢者の「孤独死」、地域の「防災・防犯」など、「自助」と「公助」だけではこぼれ落ちてしまう問題もたくさんある。
これからの人口減少時代には、セーフティネットとしての「公助」の社会制度づくりと同時に、「自助」と「公助」の中間領域の「共助」の仕組みづくりが必要ではないだろうか。しかし、少子高齢化が進み、人々のつながりが薄れている日本社会では、家族や地域コミュニティなどのインフォーマルな機能が働きにくくなっている。
本来は、社会の問題解決システムとして、「自助」、「共助」、「公助」の仕組みが重層的に存在してこそ、われわれは安心して暮らすことができるのである。
「共助」の仕組みは、「自助」と「公助」の隙間を埋める人々の連帯(Fraternity(*1))によってつくられる。市民は、単に税金を払って行政サービスを買う「お客様」ではなく、自律的に自ら考え、行動することで互いを支え合う「共助」社会をつくる主体でなければならない。
しかし、哲学者の鷲田清一さんは、『公共的なことがらは「お上」にまかせるというふうに、市民生活が「私」的なものへと縮まっている。(中略)サービス社会のなかでひとびとはその市民性を喪失しつつある』と指摘している(*2)。
他者に対する「無関心」が拡がり、社会的孤立が深刻な問題になっている現在、社会にはある程度の「お節介」、即ち文字通りの「節度ある介入」が必要だ。鷲田さんは、「見て見ぬふりをする」と「見ぬふりをして見る」の間には大きな温度差があり、市民は傍観するのではなく、きちんと口を出すことが重要だとも述べている。
「共助」社会とは、「あなた」と「わたし」が支え合う「YOU・I」社会であり、「無関心」とは対極にある友愛(Fraternity)社会を意味するのではないだろうか。
(*1) "Fraternity"は、「連帯」、「互助」、「友愛」などを意味する
(*2) 鷲田清一著『しんがりの思想~反リーダーシップ論』(角川新書、2015年4月)
関連レポート
(2015年5月19日「研究員の眼」より転載)
株式会社ニッセイ基礎研究所
社会研究部 主任研究員