知らない間にはまっている”フレーム”を外してみよう。 そこから自由は始まる。

自分の人生を犠牲にしているかどうかは、他人には分からない。 だから自分に聞いてみよう。「幸せだと感じているか? 希望を持てているのか?」と。

何の為に医者や看護師やってるの?

どんな看護師になりたいの?

で、ここに何を求めてやってきて働いてるの?

そして次はどこで何をするの?

それは何の為に?

それで、そこでそれをする意味は?

その結果、どうなりたいの?

と、矢継ぎ早に質問して攻め立ててみる。

まあー、そこまで皆深くは考えてないようだ。

一度しかない今の人生だからね、ちゃんと考えて生きたほうが質が高まると思うのよ。

人生はそのプロセス(過程)にこそ、真実があるのだから。

だから、

「何かを始める」「何かを求める」

そういう時でさえ、まず自分が知らない間に押し込まれている"フレーム"を疑うところから始めた方がいいと思ってる。

例えば、一昔前は(もしかして今でもかな?)、医学生や若い医者達に将来を尋ねると皆、一様に先端的医療がしたいという。

海外ボランティアをするとか、休学をするとか、それは彼らにとって"先端的医療からの離脱"を意味していて、時代から取り残されるのだと認識していて、とてもストレスがかかるという。

でもね、考えてみてよ!

先端的医療を必要とする患者って一体、患者の何パーセントよ?

100パーセント近い人間がそれを目指してどうするのよ? と、私はいつも思ってる。

なぜか、医者たるもの皆、先端的医療をしなければ国民を苦しめるという、得体の知れない誰かが植え付けたと思われる罪悪感を、知らぬ間に背負わされている。

そういうフレームね。植え付けられた。

まずはそれを外さないと。

Open Image Modal
フレームのイメージ

こういう根拠のないフレームが巷にはあふれていて、個人をうまくコントロールしたい権力や権威を持つ者に、皆、利用されている。

海外、特に途上国で医療をやる。そうすると、日本人は必ず医療の自立というのは「現地人だけでやるのが素晴らしいのだ」という考えをまあ、ほぼ全員が信じている。

私はそうは思っておらず、そのことにより「現地人だけでやる」ことが目的化され、肝心の医療の充実がおろそかになる可能性があることに危機感を抱いている。だから、私は今も自ら医療活動を続けている。

現実的な国籍や免許の問題を除けば、その国の人だけで完結する科学分野の構築は時代の流れに逆行している。恐ろしく独断的に進められている軍事や個人情報の収集など、おおよそ人類全体の利益を損なう分野だけがそのような時代遅れの考え方で運営されているとすら感じている。

その「途上国の人間だけで運営できることが素晴らしいことだ」というフレームは、「医療は患者のためにある」という大原則を考えれば、患者にとって最良の医療を提供してくれる医療こそが最善であり、提供する側の国籍などどうでもいいことだと思う。

私がその国の人間だけで運営できるのがいいと考える理由は、経済効率と現状の免許や国籍などのシステムによるところであり、他の日本人たちが信じているような"それが素晴らしい!"という理由からではない。

さて、先端医療をしなければ罪なことだと若い医療者たちに刷り込んだのは果たして誰なのか?

大方、先端的医療しなければならないと刷り込んだのは大学や大型病院で、大学の医局に医者を集めるため、あるいは権威を保つためにそのような考えや雰囲気を作り出していると思う。

日本の医療界は多分に漏れず"数は力"の論理が強いなと感じる。

大学にいかなければならないとか、英語ができなければならないとか、男はこうあるべきだとか、日本は素晴らしい国だとか...。

なんか全ての人に普遍的にさも正しいかのように刷り込んでくるから。

看護師は患者の言うことに理解を示さなければならないとかね。

お客様はどの人も大切にしなければならないとか。

本来、こんなのはケースバイケースなのに、なぜか普遍的に、そうしなければおかしいようなフレームを植え付けられている。

結果、誰もがストレスを抱えて青息吐息になって疲れているように見えてる。

話を戻すと、あるべきだと刷り込まれたフレームをいったん外してみて、自分に向き合ってみることをオススメする。

Open Image Modal
イメージ写真

そうすると、当たり前に大方、何の為に看護師や医者をやってるかも分かってくる。

お金を稼ぐ手段。

自己実現の手段。

でも、結局、今それをやってる究極の目的は、豊かな人生を生きるためでしょ? 違うかな?

お金を稼ぐのも、自己実現も、それは豊かな人生を生きるために必要なものだからじゃないかな?

ほとんどの職業は服みたいなもので、いつでも脱ぎ捨てられるし、新しいものに代えることができる。

その服を着るために人生をすり減らし、自己嫌悪に陥り、挙句、大きな病気になったり、鬱になって自殺したりする。それでは本末転倒だろう。

お金などにあまり縁のない私でさえ、お金は大切でそれがないと生きていけないことは知っている。

では、一体いくらあれば、節約したら生きていけるんだろう? と考えてみる。

こんな時代だから安定を求めるという人もいるけど、20世紀後半の一時期を除き、個人が今よりも安定していた時代などこの国には一度もないと思う。平均寿命が延びているということはすなわち、安定しているということだと思うけど。

多くの人は、お金はこれくらいあればいいのだ、という基準を設けたほうがいい。

今を犠牲にして、未来の安定を買うために、時間を投下する。

そしてその未来になれば、再び同じことを繰り返し、気が付けば生きる時間が終わろうとしている、あるいは無為な日々を送る老人になってしまっている。若い輝ける時間を犠牲にして、無為な老齢の時間を手に入れたなどという笑えない冗談を、一度しかない人生でやらかす気には、私は到底なれない。

私の中で楽天家というのは、"まあっ、いいか"と思える人間のことだ。

自分を追い詰めすぎない。

「こうすべきだ」

「こうあらねばならない」

を、自分の人生を犠牲にしてまで求めすぎない。

自分の人生を犠牲にしているかどうかは、他人には分からない。

だから自分に聞くしかない。

自分は今幸せだと感じているか?

今、希望を持てているのか?

時間の密度はかつてないほど濃密なものか?

もしも1年後に死ぬ病になっていても時間をもったいないと感じないのか?

人生はそぎ落とし。

いらないものをそぎ落としていく。

そうすれば自分に本当に必要なものだけが見えてくる。

お金も、時間も、友達も、仕事も、所有物も。

自分の人生に本当に必要なものは何か?

それはどんな人生を歩みたいから必要なのか?

本当の自分にとっての幸せとは何なのか?

私が世界から強制されるべきフレームなど本来はないのだけど、自分自身が知らぬ間にはめ込まれているフレームを外すことから自由は始まる。

そのために人生に揺らぎを与えねばならない。

揺らぎを与えるというのは、毎日の思考や常識、習慣を疑い、もう一度自分の人生にとって必要かどうか、それが本当の幸せをもたらすのかを、自分の心に聞き返し、そぎ落とす。

でないと、これから人生100年だから。

無為な老後が長くなる。

Open Image Modal
イメージ写真