フィデル・カストロ――波乱に満ち、光と影が交差したキューバ革命指導者の生涯

「彼について、中立的に語れる人はいない」
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論争好きの革命指導者で、キューバ共和国の首相、大統領を務めたフィデル・カストロ前国家評議会議長が90歳で死亡したと、キューバ国営テレビが発表した

世界で最も長く君臨した政治指導者の1人であるカストロは、1950年代にキューバ革命の中心的役割を果たした後、49年間にわたりキューバを統治した。彼はその生涯で、キューバを西半球で最初の共産主義国に変え、冷戦中にアメリカ合衆国のそばで国家元首となり、対立を生む人物という印象を与えた。

カストロは支持者たちから、アメリカその他世界中の政治的大国に立ち向かい社会主義者の理想のために戦った英雄としてもてはやされたが、批評家たちからは、国民に対して数え切れぬほどの人権侵害を犯し、キューバ経済を崩壊させ、100万人以上のキューバ人を難民にした無慈悲の独裁者として見られた。

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フィデル・カストロは生涯を通して評価が分かれる人物だった。

私生児として誕生

1926年8月13日、フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスは、裕福なサトウキビ農家の私生児として、キューバのビラン近郊にある父親経営の農場で生まれた。イエズス会の私立学校で教育を受けたカストロは、勉強もスポーツもできたが乱暴な子供だった。高校では無謀なふるまいをすることから、変人を意味する「エル・ロコ」と呼ばれていたという。このあだ名は1945年にハバナ大学で法律を学び始めてからも付いて回った。

この大学は当時政治活動が盛んで、カストロは政治、そして政治活動に興味を持つようになった。そしてカストロはキューバの民族主義思想に感化され、学生運動の指導者となった。頻繁にストライキやデモを起こし、当時の大統領ラモン・グラウとその政権を非難した。

「フィデルの世代はひどくフラストレーションを感じていました」と、ベテランのアメリカ人ジャーナリスト、ジョージ・アンナ・ゲイヤーは、カストロを特集した2005年の公共放送局PBSのドキュメンタリーでそう語った。「キューバはアメリカ、アルゼンチンと並んで西半球の諸国で最も豊かな国のひとつでした。それでも彼らは、政治的に結集できなかった。彼らはあらゆるリーダーがアメリカによって失脚、殺害、交代させられるのを見てきました——失敗、失敗、また失敗でした」

カストロは大学生の頃に才覚の片鱗を見せていたが、暴力的な活動に参加しているという噂もあった。彼の当時の評判は次のようなものだった。ミルタ・ディアス・バラルトという名の若い女性(カストロが1948年に結婚することになる)と恋に落ちたとき、彼女の兄弟は次のように警告した。「彼がクレイジーなのは分かっているだろう。彼は誇大妄想的でサイコパスで、あなたにミンクのコートを買ったかと思ったら、きっとすぐにあなたを10階から投げ捨てるようになる」

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「私を有罪にするがいい、構わない。歴史が私の無実を明かすであろう」。カストロが法廷でこのように発言したのはよく知られている。

革命

カストロは1950年にハバナ大学を修了し、法学博士の学位を受けた。その後カストロは小所帯ながら弁護士として開業した。しかし最も大きな情熱を持ち続けた対象は政治であり、保守党(オルトドクソ)から国会議員となるため、選挙運動を開始した。

しかし1952年3月、フルヘンシオ・バティスタ将軍がクーデターを起こし現職の大統領を追放したため、カストロの政治的野望、そしてキューバの民主主義は頓挫した。独裁者となったバティスタは次第に暴君と化し、バティスタ政権は汚職が蔓延した。

カストロは彼の弟ラウル、そして100人以上の反政府勢力とともにバティスタ政権に対して蜂起した。彼らの目標は国内最大の軍駐屯地の一つであるモンカダ兵営であった。通常、キューバ革命の始まりとされる1953年7月26日に行われたこの攻撃は失敗に終わった。何十人もの反乱分子が捕らえられ、拷問を受け、その後処刑された。カストロと彼の兄弟は捕らえられ懲役15年。

「私を有罪にするがいい、構わない。歴史が私の無実を明かすであろう」。カストロは自身を弁護し、裁判の中で堂々と述べた。

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カストロは反バティスタ運動のアイコン、シンボルとなった。

モンカダ兵営を襲撃したのは軍事的な観点からだったが、それには非常にシンボリックな価値があった。カストロは反バティスタ運動のアイコン、シンボルとなった。1955年に、彼とラウルはバティスタ政権の恩赦で釈放された。そして兄弟は、彼らが革命運動を準備したメキシコに渡った。彼らが、アルゼンチンのマルクス主義者・革命論者であり、革命と初期のキューバ新政府で重要な役割を果たすことになるエルネスト・チェ・ゲバラと出会った場所だ。

1956年12月2日、カストロ、彼の兄弟、そしてゲバラを含む男性82人のグループは、グランマ号という名のヨットに定員超過で乗っていた。彼らはキューバに上陸したが、モンカダ襲撃の時のように攻撃され、64人の男たちが命を落とした。生き延びた18人のグループは山中に逃げ延び、そこで彼らは新しい戦士を募った。革命家たちは政府軍に対し、壮絶かつ効果的なゲリラ戦を始めることとなる。

1959年1月1日、反乱軍との数年間にわたる戦いの後、バティスタはキューバから逃亡した

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カストロは1959年、キューバの首相に就任した。

多くの人々から国民的英雄だとみなされたカストロは、1959年2月にキューバの首相に就任した。

国際社会は、カストロ政権のバティスタ支持者たちに対する残虐な弾圧を非難したが、キューバ国民はカストロ側を熱烈に支持した。彼がキューバ革命について、ときには数時間におよぶ長い熱弁をふるうと、何十万ものキューバ人が集まり歓声をあげた。

「キューバの人々は、自分たちの善意や信条、判断をフィデル・カストロに委ねました」と、キューバ出身の学者でアメリカ在住のマリフェリ・ペレス・ステーブル教授は2005年、PBSのドキュメンタリーで語った。「それは非常に大きな政治的資本となりました。それで彼は権力を集中できたのです」

葉巻メーカー「パドロン・シガーズ」を設立したキューバ人亡命者、ホセ・オーランド・パドロン氏は異なる見方をした。2012年のドキュメンタリー番組『キューバメリカン』で、「わたしたちは彼に従いました。みんなだまされていました」と語った。

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カストロは政権樹立後すぐにソ連に忠誠を誓った。当時のソ連首相フルシチョフと

冷戦

その後数十年にわたって、カストロはキューバに苛酷な支配体制を築き、国際舞台で一目置かれる存在となった。

冷戦時代、カストロのキューバは当時の政治の世界でとりわけ強い影響力を示した。カストロは社会主義への信奉を明らかにし、政権発足後すぐにソ連への忠誠を誓った。カストロはアメリカと、すべての資本主義的で帝国主義的な企業を攻撃し始めた。

1960年。この年はその後数十年にわたるキューバと隣国アメリカとの対立の端緒となった。カストロはキューバ在住のアメリカ人が所有する資産を没収し、アメリカが所有する資産及び企業を国有化した。カストロの行動、そしてカストロとソ連との緊密な関係に苛立ち、警戒したアメリカは、まずキューバ経済を麻痺させることになる禁輸措置を開始し、1961年のピッグス湾事件でカストロ政権の転覆を図った。ピッグス湾事件はCIAが画策したキューバ攻撃で、アメリカの作戦は大失敗だった。

ピッグス湾事件から1年経ち、カストロは最も悲惨な冷戦対立の中心人物となった。キューバ危機だ。

カストロは、ソ連政府がキューバに弾道ミサイルを配備することに同意した。伝えられるところでは、当時のソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフに書簡で、「核攻撃はアメリカに対して行使されるべきだ」と語り、さらにキューバ国民は、「帝国主義の破壊と世界革命を引き起こすためなら、自らを犠牲にする覚悟はできている」と述べたと言われている。

1962年10月にアメリカの偵察機が、ミサイル発射装置の建設を発見した後、カストロが話していた破壊が現実味を帯びてきた。その後2週間にわたって、ソ連とアメリカは緊迫した交渉を行ったが、世界が、後にも先にもこれほど核戦争の危機が迫り翻弄されたことはなかった。しかし、幸いにも、ソ連は(カストロにとっては癪ではあったが)最終的にキューバからミサイルを撤去することで合意し、危機は回避された。

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カストロは信じられないほど長いスピーチをすることで悪名高かった。キューバの記録で彼の最も長いスピーチは7時間10分だ。

論争の的となるカストロの「遺産」

2006年、長らく非公開にしていた病に倒れた後、カストロは権限を弟のラウルに委ねた。カストロは正式には2008年、49年間キューバの長を務めた後退任した

カストロ時代の統治では、全国共通の医療制度や教育といった社会改革を始めたことで賞賛されている。2011年にはキューバの識字率は99.8%だったとみられる。

2006年、当時のロンドン市長だった左派政治家ケン・リビングストンは、カストロの社会改革を賞賛している。「驚くべきことに、ほぼ半世紀にわたってアメリカから不法な経済制裁を受けていた国で、国民に最高の標準的な医療制度とすばらしい教育をもたらしたことだ」と、リビングストンは語った。「経済戦争の真っ只中で実行したのはフィデル・カストロの偉大さの証だ」

しかし、カストロが政権の座に就いていたおよそ50年の間、彼はキューバ国民に絶対の服従を求めていたとも言われている。そして、彼はこの間、報道の自由を弾圧し、反体制派の活動家、芸術家、LGBTコミュニティに属する人々など、自分が「反社会的」だとみなした人々を投獄していた。

「ほぼ50年にわたって、キューバ国民たちは、自由な表現、プライバシー、結社、集会の開催、政治・社会活動、法の適正な手続といった基本的人権を、組織的に奪われていた」と、人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは2008年に報告している。「政治的服従を強めるために使われた戦略には、警察からの警告、監視、短期間の留置、自宅監禁、旅行の制限、刑事起訴、そして、政治的な動機による解雇などがあった」

カストロは、数千人の政治犯を投獄したと考えられている。彼が政権を握っていた約50年間で、100万人以上のキューバ人たちが祖国から難民となって逃亡した。

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フィデル・カストロは、2006年に病に冒されると、弟のラウルに権力を譲った。

カストロ自身の家族は、彼と、彼のとった行動を非難した。1960年代にキューバから逃亡した妹のフアニータ・カストロはキューバ脱出後、このような有名な言葉を語っている。「私は、自分の国で起きていることに、もはや無関心で居続けることはできません。私の兄であるフィデルとラウルは、祖国を海に囲まれた巨大な監獄に変えてしまいました。祖国の人々は、国際的な共産主義によって負わされた苦しみの十字架に、釘で打ち付けられています」

カストロの娘たちの1人(カストロは、少なくとも8人の子どもをもうけた)であるアリアナ・フェルナンデスもまた、カストロ政権に対して極めて批判的だった。1993年にキューバから逃れたフェルナンデスは、父親の残す遺産は「破壊され尽くした国と、とても苛酷で、癒やすことのできない経験をした亡命者たちだ」と語った

国際的な舞台では、カストロは慕われ、それと同じくらい軽蔑された。カストロは、630回以上の暗殺計画から生還し、そのほとんどは、CIAが企てたものだと主張した。カストロには多くの敵がいたが、それでも熱烈な支持者に事欠くことはなかった。

冷戦時代に、東西のいずれにも属さない国際組織「非同盟運動」の指導者として2度選出されたカストロは、その勇敢さと革命への情熱によって、影響力の大きい有力者から称賛を集めた。その中には、ネルソン・マンデラ南アフリカ前大統領や公民権活動家のジェシー・ジャクソンがいる。ジャクソンはカストロについて、「私が会っ?

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