九州・大分出身で、女子大を出た私が、なぜフェミニストになったのか。いつからフェミニストを名乗り、ソーシャルアクションを起こすようになったのか。
正直にいえば、フェミニズムを専門的に学んでいない私が、フェミニストと名乗ることに、抵抗感があったことも事実だ。
起業、妊娠、出産、子育てを経験した私が、体当たりでぶつかっていった「ガラスの壁」は、私をフェミニストにするには十分だったーー。
大分で生まれ育った、女の子だった。
なんにでもなれる未来に向けて、12歳の女の子だった私は卒業文集の将来の夢に「国連職員」、クラスの文集には「社長になって年収1000万」と書いた。
新入生代表の挨拶をして、地元の公立中学に上がった。クラス名簿は男女混ざった五十音順で、成績発表はいつも男女関係なく上位を争っていた。「部活の部長は男の子が良い」と先生が言ったりしても、そんな些細なことが私の未来に影響するはずもなかった。
高校の新入生代表は、隣の中学出身の男の子だった。大分県の田舎町、父に続いて私と弟が通う、地元の県立進学校。夏休みに、県の青少年海外派遣でオーストラリアに短期留学して帰ってきたとき、全く違う景色が見えた。
昔のように男の子と女の子が一緒に並ぶ機会は減っていた。高校もよく見たら、教師も上に行くほど男ばかりだ。教頭、校長。式典の来賓、社長、市長。おじさんばかりの世の中に放たれて、女の子はどこに行くのかと思った。
そして入学した日本女子大学。第一志望は共学だったが、滑り止めで受けた大学はすべて女子大だった。いま思えば、「東京に行くなら女子大の方がいい」といった父の影響は大きかったのだと思う。
「この度はお嬢様のご入学おめでとうございます」と書かれたピンク色の合格通知に家族は舞い上がり、当時は父の一言に疑いを持つことはなかった。
上京してから、初めてのアルバイトに一人暮らし。満員電車にすぐに音を上げた。ポスターで見る痴漢注意の呼びかけを見ても、たまに現れる同じ駅で降りる変な人の行動に、私は大きな疑問を抱かなかった。
パステルカラーのキャンパスライフで、「27歳で出産したいなら、25歳で結婚したいから、23歳には同棲する必要があって、そのための出会いがありそうな職場を狙った就活もしたいけど、そもそも何年か付き合ってから同棲したいから、やっぱり学生時代から彼氏が欲しいから、脈ありな合コンに行きたい......」などと真剣にライフプランの打算的逆算をしていた。
その頭の片隅には、大学の「女性労働論」で習った、女性の就業率の変化を示すM字曲線があった。奇しくも、女子大に進学したことで、生存戦略的にキャリアを考えながら“女の子”を謳歌していた。
大学3年生になると、就職説明会に行き、OG(女子大なのでオールドガール)訪問をしながら、学校主催のメイク教室や小笠原流の立ち振舞のお作法教室に参加するなど忙しく過ごした。
女子大生だったからこそ、男の子と並ぶことを意識せず、社会に出る前にびのびと過ごすことができた貴重な4年間だった。私の周りは、女ばかりだったから。大学では、教授も学長も、偉い人もほとんどが女だった。
就職して目の当たりにしたジェンダーギャップ
新卒で入社した製造コンサルティング会社には、如実なジェンダーギャップがあった。
幹部は全員男性で、私が採用された文系総合職は、ほとんどが女子大の学部卒。そして、理系総合職はほとんどが男性の院卒で、同期なのに2〜8歳上といういびつな関係だった。
どうやら社内恋愛・結婚の推進だったようだ。ガラスの天井どころか、本当におとぎ話のようなガラスの靴が用意されていた。本社勤務中は、マナーとして5〜7センチのハイヒールを履くように指導された。お酒の席でお酌することも当たり前だった。女性社員だけにあらゆるマナーがあったが、当時は差別だと気づかなかった。
転職して出会ったフェミニズム
法人営業や製造業を経験し、二度の転職を経て、2012年にアパレルセレクトショップを展開するアッシュ・ペー・フランスのプレスになった。「オルタナティブであること」を社是に掲げるヒューマニズムに溢れた企業で、ファッションデザイナーやアーティスト、ヒッピー達と創る新しい世界を大切にしていた。
2015年、アパレルプレスに慣れた頃、担当していたショップLamp harajukuのディレクター矢野悦子さんが、「フェミニン・フェミニスト」宣言をした。
フェミニン・フェミニストは造語で、軽やかに女性らしさを表現するという意味で、ファッションではお馴染みの用語「フェミニン」が、政治的な強い意味を背負った「フェミニスト」をふわりと包んだ表現だ。
アーティストやショップスタッフ全員と、フェミニストについて勉強会をし、フェミニズムZINEを作るワークショップやイベントを企画した。
俳優エマ・ワトソンと共に、新たなフェミニズムの潮流がファッション業界にも広まっていた頃の話だ。
起業→妊娠。自営業者になって知った保活の現実
その後、私は夫婦で起業し、妊娠して、人生で初めて女の人生を思い知った。
妊娠したのは、結婚して3年目のことだったから、望んだタイミングだったとも言える。でも、起業してすぐ、総務省の異能vationプログラムに採択されたタイミングでもあった。妊娠生活は、起業家としてのスタートを障害物競走にしたのも同然だった。
同時に、創業期にパートナーが妊娠し、産休も育休や手当もなく会社を支えることになった夫も大変だったはずだ。
自営業で良かった面もある。妊娠初期のつわりがつらく寝たきり生活だったので、会社員だったら有休を使い果たしていたかもしれない。幸い、つわりを乗り越えた妊娠中期以降は、すこぶる元気な妊婦として仕事を続けた。
はじめに何かが違うと思ったのは、妊娠中に訪れた港区の保育園入園相談だった。母親学級と一緒に申し込んで参加した相談の場で、フリーランス・自営業の共働きではほとんど(保育園に)入れる見込みはないと告げられた。
「みんな一緒にお母さんになります」と励まされた直後の、「あなたは自営業だから(“普通”の働く母親ではないから)、保育園に入れません」という拒絶。見学申し込みをした近所の園は、見学すら150人待ちで翌年になっても園が見られるかわからなかった。
保活のために転居。ベビーカー登園は迷惑なの?
八方塞がりになった私は、出産後、一縷の望みをかけて、保活のために渋谷区に引越した。
フリーランスを逆手にとって、早々に仕事に復帰し、ベビーシッターにフルタイムで預けて受託証明書なる書類を手に入れ、保育加点をつけて、0歳4月で認可保育園に入園した。
すっかり保活のプロになった私たち夫婦は、入れただけでありがたいと4駅先のターミナル駅まで電車で登園した。時々、ベビーカーで乗らざるを得ない電車の中では、「降りろ」と言われたり、舌打ちされたりすることもあった。
子どもが大きくなるにつれて風当たりは強くなった。でも私が望んで遠い保育園に通っているわけではない。厳しい保活の結果、入園できたのが電車に乗らなければ通えない距離にある保育園だっただけなのだ。
息子が2歳になった夏。困った私は、サングラスと金髪の出で立ちで電車に乗って登園することにした。
満員電車に乗ってベビーカー登園する“申し訳なさそうな”“大人しそうなママ”を演じるのをやめれば、直接文句を言われることが減って、平和に過ごすことができたから。
働きながら、妊娠・出産を経験したことで、社会の課題も見えてきた。私の目の前に立ちはだかる困難は、多くの女性が抱える課題だと気づいた。
私はとにかく自分の目の前の現実をSNSで発信していくことで、次第に当事者団体やメディアと繋がっていった。そうして、私は3つのソーシャルアクションを起こした。
「雇用関係によらない働き方と子育て研究会」
保活の大変さを語る経験者としてメディアの取材を受けるようになった頃、#保育園に入りたい キャンペーン発起人の天野たえさんらが主催する院内集会に参加した。
集会では、今後の保育政策を考えようと、働き方別に当事者同士でグループを作った。100名ほどは参加していた会場だが、フリーランスや自営業者のテーブルは人は少なかった。そこで、プロフェッショナル&パラレルキャリア・フリーランス協会の平田麻莉さんと中山綾子さんと意気投合。
この出会いがきっかけとなって、産休・育休時の被雇用者と自営業者の格差是正を求める当事者団体として、「雇用関係によらない働き方と子育て研究会」を心強い自営業ママメンバー6人が発起人となって立ち上げることになった。
待機児童問題、熾烈な保活、フリーランスと正社員、法制度による産育休の違い、自己負担の出産費用、自営業夫婦の子育て......。自営業ワーママのリアルが詰まっていた。
この活動は、SNSの呼びかけによって、署名サイト「Change.org」で1万3000筆を超える署名を集め、厚生労働省に陳情し、会見することになった。
しかし、私たちの活動が掲載されたヤフーニュースのコメント欄は荒れた。正社員VSフリーランス、専業主婦VS自営業ママといった、誰かが作り上げた対立構造が存在しているのを知った。
「子連れ100人カイギ」
ソーシャルアクションを通じて、署名やロビー活動などでいろんな声を聞き、私たちの日々の生活が、社会問題と繋がっていることを実感した。
2017年は、熊本市議の子連れ議会出席問題が物議を醸し、私の心もかき乱されていた。子連れ出勤せざるを得ないこともあるのは、自営業者ならごく当たり前だ。子連れであることについてポジティブなメッセージを発信しようと、「子連れ100人カイギ」を立ち上げた。
開催趣旨には、こう記されている。
保育園落ちた、子連れ議員…ネガティブなワードや賛否両論の議論が巻き起こる平成の終わり。21世紀の子育てって、こんなもの? 私たちはみんな子どもで、子どもはみんな大人になる。この世界にまちがいなく存在し、必要不可欠なプレイヤー(子ども)とそのサポーター(大人、親)を主役にした、子連れ100人カイギを渋谷の街で開催。
社会的なメッセージを込めながらも楽しくクリエイティブなイベントを目指した。渋谷区、東急電鉄、ハフポストの後援を得て、2日間で300人以上の大人と子どもが集まるイベントになった。
「子どもの安全な移動を考えるパートナーズ」
2018年のクリスマス前につぶやいたツイートが「炎上」した。満員電車にベビーカーと乗らざるを得なかった経験を呟いたのだ。かなり強い表現でつぶやいたそれは大炎上した。
私は“子連れ様”や“ベビーカー様”と揶揄され、引用ツイートなどでネガティブなコメントや誹謗中傷を受けたのだ。
中には「こんな母親に育てられる子どもがかわいそうだ」と言う声もあった。しかし、私は満員電車に子連れで乗らなければいけない、家の近くの保育園に入れない社会の現状と、社会の不寛容について発言したのであって、「いつも満員電車に乗せてこんなふうに子育てしています」と書いたわけではない。
ベビーカー登園を、母親のせいや子育てに問題であるかのように捉えられるのは間違っていると思う。それなのに「子どもがかわいそう」といわれては、自分ではどうにもならない現状を抱える母親たちの口を封じる行為にもなってしまう。
ネガティブなコメントに、一つひとつ対応しながら、私自身の価値観や思想に対する意見ではなく、それぞれの発言者が抱える価値観が浮かび上がってきた。
毎日、満員電車で通勤している人たち、迷惑をかけないように子育てしている人たち、子育てが他人事に感じられる人たち、社会に絶望している人たち。多くの人たちが、声を上げずになんとか我慢している。そんななか声を上げた私のような存在が、異質に映ったのかもしれない。
でも誰だって思ったことや感じたことを声にしていいと思う。つらかったら「つらい」と言ってもいい。みんながつらいなら、1人ずつ、いつかはみんなでやめればいい。誰かが声を上げなければ、目の前の日常は変わらない。
賛否はあれど、私のツイートがここまで反響があったのは、多くの人の関心の現れなのではないか、と感じた。
こうして、私は満員電車や公共交通機関でのベビーカーや子連れの安全のために、神薗まちこさん(現・渋谷区議)や藤代聡さん(株式会社ママスクエア代表取締役社長)と共に、「子どもの安全な移動を考えるパートナーズ」を立ち上げた。
約1000人を対象に実施したアンケートによると、保護者の約9割が「公共交通機関は子どもにとって危険である」と回答。衝撃的な調査結果が浮かび上がった。
そして、炎上事件から約2カ月後となる2019年2月。
私は、小池百合子東京都知事に、公共交通機関での子どもの安全な移動に関する要望書を直接届ける機会を得た。都知事に、子連れで会いに行き子育て応援車両の早急な実装を呼びかけた。
7月末から、都営大江戸線で子育て応援車両が走り始めた。
「あなたなんか、フェミニストじゃない」といわれて
子どもが生まれてから3年間、社会の課題と向き合い続けてきた私は、ソーシャルアクティビストと呼べるのではないだろうか。まさに当事者性に突き動かされたフェミニズムの実践だった。
「あなたなんか、フェミニストじゃない」といわれることもあった。
たしかに、正直にいえば、フェミニズムを専門的に学んでいない私が、フェミニストと名乗ることに、コンプレックスがあったことも事実だ。
けれど私は、女性だからこそぶつかった壁を通じて、同じ課題と向き合う人とつながり、ソーシャルアクションにすることで、フェミニズムを実践する人なのだと、自覚するようになってきた。
「フェミニストかくあるべし」と反応する人こそ、心の奥にこうありたいという願いがあり、その反動で、そうではない他者の活動に違和感があるのかもしれない。
きっとどの人にも、その人の思う“フェミニスト像”があるのだろう。それぞれの思うフェミニスト(もしくはまた別のアクティビスト)に、ぜひなってほしいと思う。
ちなみに、私の場合「なんでいつも何かに怒ってるの?」と聞かれたこともあるけれど、上野千鶴子先生も「情熱大陸」で「いちいち怒っていい」と言っていたから、怒ってOKにしている(笑)。
怒る時は怒って、思い描く未来は自分で創って、なるべく笑顔で生きていたい。
大きな願いを掲げたとしても、なるべく有言実行したいと思っている。何を言うかではなく、何をするべきかを大切にしている。
アクティビストは #metoo と声を上げている。フラワーデモをした。アンケート調査をした。署名活動をした。政治家に要望書を提出した。大切なのはアクション。言葉はそれに対するリアクションだ。リアクションには、再びアクションで返していきたい。
私は行動する。在野のフェミニストとして生きていきたい。
20世紀に女として生まれ21世紀を生きる
これまで私は、進学を、就職を、結婚を、子育てを自分の自由意志の下に選択してきた(と思ってきた)。
それは、かつて私が生まれる前に、女性の権利を勝ち取るために尽力した人たちのおかげだ。
もしも私に進学の自由がなかったら。(大学に行く必要はないと言われていたら)果たして今やりたい仕事ができたのだろうか?
もしも私に職業選択の自由がなかったら。(地元を出ずに就職せよと言われていたら)きっと今のようなアクティビストにはなれなかっただろう。
もしも私に結婚の自由がなかったら。もしも私に子育ての自由がなかったら......。
私はフェミニストになっていなかった。
女性の権利を切り拓いてくれた先人がなかったら、私は一体どんな人生を歩んでいたのか、考えることがある。
私は自分の力で軽やかに人生を切り拓いて、なんにでもなれるのだと信じていた。
でも、勘違いだったのだ。私たちは、21世紀の時代に、次の権利を勝ち取らなければいけない。今ある生活を支える権利を守り抜くことも同じくらい大切で、実は大変なことだ。
“国民の代表にまかせます”というスタンスで表舞台から去ったらどうなるか。当事者の声は届かず、マジョリティに最適化された世界になってしまうだろう。
女性運動のパイオニア、平塚らいてうが女性の政治的権利獲得のために婦人団体を発足させたのは1919年だった。それから100年。次の100年のために、21世紀の女の生きかたと向き合いたい。
平本 沙織 Saori Kanda Hiramoto
ソーシャルアクティビスト / フェミニスト
株式会社wip取締役日本女子大学家政学部家政経済学科卒業。女子大生から丸の内OL、2度の転職と夫婦起業を経てソーシャルアクティビストとして活動。2016年生まれの息子を持つ。3Dプリンタ専門家、拡張家族実験プロジェクト「Cift」メンバー。
2017年「雇用関係によらない働き方と子育て研究会」発起人
フリーランス・自営業者の産育休のセーフティネットを求めて13,000筆を超える署名を集め、厚生労働省への陳情と省内記者発表を行う。
2018年「子連れ100人カイギ」実行委員長
熊本市議の子連れ議会出席問題をきっかけに、子連れ出勤のポジティブなメッセージングを目指してハフポスト、渋谷区、東急電鉄の後援を得て初開催にして2日間で300人以上を動員。以来毎年、渋谷キャストにて開催している。
2019年「子どもの安全な移動を考えるパートナーズ」代表
自身のTwitter炎上をきっかけに、満員電車や公共交通機関でのベビーカーや子連れの安全のために神薗まちこ(現・渋谷区議)、藤代聡(株式会社ママスクエア代表取締役社長)と共に1,000件規模の実態調査アンケートを実施。回答した保護者の約9割が「公共交通機関は子どもにとって危険である」とした衝撃的な調査結果を持って2019年2月、小池百合子東京都知事に要望書を手渡し、子育て応援車両の早急な実装を呼びかけた。2019年7月より、都営大江戸線にて子育て応援車両が走り始める。
編集:笹川かおり