着ぐるみに歓声をあげる不気味な日本人

現代の日本人の多くは、生活の中で背中のチャックが見えても何もみていないものとして共同の幻想にしがみついて生きています。
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Pamela Moore via Getty Images

自分達の運営する商業施設が夢の国であるという思い切ったウソをつきながら、涼しい顔で安からぬ入場料を要求するレジャー施設があります。この夢の国のルールでは子供だけではなく、その保護者と同年配のおっさんやおばはんも着グルミに向かって歓声をあげるのが正しい姿勢とされています。彼等が自分達の運営するランドの中で、そのルールに納得している人達を相手に不気味な世界を形成するのは彼等の勝手ですから何の問題もありません。しかし昨今のゆるキャラブームの影響で、ランドから出たら醒めるべき悪夢が外の世界まで侵蝕しつつあります。

日本以外の国では、着ぐるみを相手に喜んだりはしゃいだりするのは子供だけですし、そもそも着ぐるみというのは子供のために存在しています。しかし日本では大人であっても着ぐるみを着ぐるみとしてではなく、そのキャラクターそのものとして扱います。たとえ着ぐるみの背中に金属製のチャックが見えたとしても人々は何もみていないものとしてファンタジーの世界にしがみついたまま、キャラクター自体がその場に本当に存在するものとして着ぐるみに接します。この着ぐるみを過剰なまでに受け容れる姿勢は、もしかすると現代の日本人の生き様をあらわしているのではないでしょうか。

現代の日本人の多くは、生活の中で背中のチャックが見えても何もみていないものとして共同の幻想にしがみついて生きています。わかりにくいかもしれませんから、いくつか例をあげてみましょう。

たとえば、男性から誘われることの少ない女性達が集まって女子会を開催しお酒を飲みながら恋話をします。彼女等は自分達がどうやら恋愛市場からはじき出されているということにまったく気づいていないわけではありませんが、「誰にだっていつかはすばらしい愛が訪れるのだ」というファンタジーにしがみつくために背中のチャックを見えていないものとして振る舞っています。

女性に受け入れてもらえる自信のない男性は草食男子という便利な言葉を利用して「自分には彼女が出来ないのではなくて彼女をつくろうとしていないのだ」というファンタジーに逃げ込みます。彼女をつくろうとしても出来ないのだろうということにうすうす気づいてはいますが、そんな背中のチャックから目をそらします。

母親になっても女としての幸せを諦めきれない人は、若さや美しさを保つことに必死になります。当然ながら人類は全員が時間の経過と共に老いていくのですが、彼女等はそんな背中のチャックから目をそらして「いつまでも女でもあり続ける自分」というファンタジーの世界にしがみつきます。

「運命によって結ばれたたった一人の異性と添いとげるのが愛に満ちた素晴らしい人生なのだ」というファンタジーの中で生きようとする人は、現実に日本では毎年ものすごい数の夫婦が離婚しているという背中のチャックから目をそらします。そんな欠陥まる出しのファンタジーにしがみついて生きていくのは随分としんどいことだと思うのですが、それでも必死で背中のチャックから目をそらし続けます。

「愛というのは何よりも素晴らしいものだ」とか「愛に満ちた人生こそが正しい人生なのだ」なんていうファンタジーを信じてしまった人達は、愛に満ちていない自分の人生を肯定するためにさらに荒唐無稽なファンタジーを見つけてツジツマをあわせようとします。

しかしそもそも、一人の人を愛し続けることができなくても、愛し続けられなかった人が悪いわけでもなければ愛され続けられなかった人が悪いわけでもありません。人間というのは元々そういうものだというだけのことです。それに、誰からも愛されずに生きる人生にだって価値がないわけではありません。

日々自分を騙して、日々自分を説得して、都合の悪いことからは目をそらして、なんとか「愛」というファンタジーの中で生きようとする生活には誰だって疲れてしまいます。「愛というのは人生に必要不可欠なものだ」というファンタジーと決別してしまえば、人生はグッとシンプルになりますし楽な気持ちで生きることができるのですが。

あなたは、どう思いますか?

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(2014年7月10日「誰かが言わねば」より転載)