厚生労働省の毎月勤労統計の不正問題が波紋を呼んでいる。
不正の動機や規模などまだわかっていない事は多く、国会の争点にもなっているようだが、これほど基幹統計という、国の政策を左右する数字が軽視されているという事実は衝撃だ。
統計とは国家の進路を決める上で基礎となる情報だが、これが間違っていては国が進むべき道もわからなくなる。どこかに行こうと地図を開いたら、その地図が狂っていたり、コンパスがきちんと北を示さなかったらどうにもならないのと同じだ。
データの不正を行っているのは行政だけではない。大企業の偽装データに関するニュースが近年話題になることも少なくない。
数字の重大さというのは、数字ばかりを眺めていると、つい忘れがちになるかもしれない。膨大なエクセルデータを日々眺めていると、一つ一つのセルに打ち込まれた数字に果たしてどんな意味があるのか、わからなくなってくる瞬間があるかもしれない。
しかし、政府統計にしろ、民間企業のデータにしろ、数字の向こう側には人間がいる。その数字を基に算出された雇用保険を受け取る人間がいるし、安全データに問題ないと思って乗り物を運転したりする人間がいる。
不正を行う企業や組織は、果たして「数字の向こう」にいる人間のことをどれだけ想像できているだろうか。
そんな社会の状況と呼応するかのように、数字の改ざんを巡る2本の映画が公開中だ。池井戸潤原作の『七つの会議』と俳優の山田孝之がプロデュース業に挑んだ『デイアンドナイト』だ。
この2つの映画は、信じがたい不正のニュースの「なぜ」に答えを与えてくれるように思う。少なくとも、ニュースだけでは伺いしれない、不正に関わる人間社会の厚みをわかりやすく見せてくれている。
ネジ1本にかかる命
野村萬斎や香川照之など、豪華キャスト共演で話題の『七つの会議』は、ネジの強度偽装を巡る物語だ。
中堅メーカー・東京建電の営業一課長の坂戸(片岡愛之助)がパワハラで飛ばされ、気弱な原島(及川光博)がそのポストに収まる。結果主義の北川部長(香川照之)に会議で詰められている最中に、原島の座っていた椅子が壊れ、尻もちをついてしまう。間抜けな格好に一課の社員は爆笑しているが、部長の北川とぐうたら社員の八角(野村萬斎)の2人だけは表情を凍りつかせている。
その椅子のネジには、東京建電も契約している、ある下請けメーカーのものが使われていた。そのメーカーのネジは東京建電の販売した新幹線や電車、飛行機の座席にも使用されているものだ。
実はそのネジの強度は安全規定の半分程度しかないもので、東京建電は下請けも巻き込んだ不正を行っていたのだ。
たかがネジ1本の数字だが、それが誤魔化されていたがゆえに、多くの命が危険にさらされている。新幹線の走行中に座席が故障したら、飛行機の離陸時に椅子が壊れたら…。
たかがネジ1本だが、それは多くの場所で人命を支えている。
組織ぐるみで偽装を隠蔽しようとする東京建電だが、偽装・隠蔽を決めた者たちは目の前の数字しか見えていない。ノルマ、売上、予想される賠償額etc…。その数字の向こうにいる人間は見えていないのだ。
そんな中、八角だけは過去に犯した罪により、数字の向こう側を見ようとする努力を忘れていない。
「事故が起きる確率なんて何万分の一」
山田孝之がプロデューサーに挑んだ意欲作『デイアンドナイト』は、地方の自動車産業における不正を発端にした人間ドラマだ。『七つの会議』は不正の隠蔽を暴く過程をスリリングに描いているが、こちらの作品は不正告発後の受難を描いている。
父の自殺の報を受け帰郷した明石幸次(阿部進之介)は、父の自殺の理由が大企業の不正を告発したことだと知る。明石の父の会社も下請けとして世話になっている大手自動車企業が、タイヤのハブベアリングの強度のデータを改ざんしていた。その強度が弱いとタイヤが急に外れる危険もあるという。
しかし、その企業は地域経済で支配的な立場にあり、逆に明石の父はデマを流したと流布され、村八分にされてしまい、最後には自殺するまで追い詰められ、家族は多額の負債を抱え込まされることになる。
不正は承知しているが、実態はだれも犠牲者は出ていない。騒ぐほうがおかしいと自動車企業の幹部の三宅(田中哲司)は言う。
三宅「事故が起きる確率なんて、何万分の一もないのに、正義ぶって、何百億もの損害生んで、何千人もの人に迷惑かけてるわけでしょ。どっちが正しいかなんて考えたらすぐわかるでしょ」(映画『デイアンドナイト』より)
まだ事故は起きていないが、安全基準を満たさない部品で作られた車に大勢の人が乗っている。三宅もまた、『七つの会議』の重役たちのように数字の向こう側の人間が見えていないのである。
だが、この映画で描かれるのは、その向こう側にある難しさだ。仮に数字の向こう側の人間のことまで想像できていたとしても、告発という行為はとても難しい。
なにしろ、明石の父の行動は、自分のみならず、家族まで不幸になる結果を招いたのだ。家族にまで危害が及んでも社会正義を貫くことができるのか。
主人公の明石の家庭の不幸とは対照的に、三宅は裕福な家でごく真っ当な家庭を営んでいる。不正をする企業幹部であることと、家では良き夫であり、良き父であることは両立する。
自分の生活が不正に支えられたものだとしたら
『七つの会議』のネジの不正で、リコールした場合の予想される賠償額は会社が吹き飛ぶレベルのものだ。知らずのうちにとはいえ、東京建電の社員の生活はある意味、ネジの不正の上に成り立ってしまっている。
『デイアンドナイト』の三宅が言うように、『七つの会議』でも、作中でネジのせいで死んだ人間はいない。被害に遭ったのはせいぜい、椅子が壊れて尻もちをついた原島ぐらいだ。であれば会社を守ることは大勢の社員の生活を守ることであり、それはもしかしたらある種の正義なのかもしれない。
実際、『デイアンドナイト』の三宅は自分を正義だと考えている。三宅の務める自動車会社は地域で支配的な地位にある。それは多くの関連会社がその企業の世話になっているということであり、倒産すればその地域経済が傾くかもしれないということでもある。
三宅には、地域の人々の生活を守っているという自負もあるのだろう。しかし、その正義感は数字の向こう側まで届いていないのである(狭い範囲の正義感は言い換えれば「保身」なのかもしれない)。
自分や周囲の人々の生活が不正の上に成り立っているとしたら、あなたならどうするだろうか。数字の向こうの人間よりも、どうしたって親しい人間の方が情愛も愛着もある。それでも数字の向こうの人間のことを想像する、ということが自分にできるだろうか。
厚労省の役人の方々はきっと頭の良いエリートばかりだろうし、きっと想像力のある人々だろう。そして同僚たちと飲みに行く日もあれば、休日に家族とでかけたりもするのだろう。
そんな生活をおくる中で、数字の向こう側の人々にも同じような生活があることを忘れてしまう瞬間があったのかもしれない。ニュースだけではわからない「心のひだ」を、物語なら想像できる。
そういう想像力を失わないために、物語は社会に必要とされるのだ。