photo by djv2130
失敗すればするほど成功に近づくという。
でも、失敗というやつは、良いものと悪いもの、帳消しにできるものとできないものがあるように思う。
たとえば、僕が19年も会社勤めをして、会社員として失敗してしまった!といえば、あああ、お気の毒に、とみんなが言う。
19年もかけて、立派な失敗をしましたね、と誰も褒めてはくれない。褒めてくれないにしても、少なくとも、僕の中で、取り返しのつかない働き盛りの19年という時に見合ったものが何か生まれていないと、失敗は無駄ではなかったということにはならない。
もう一度、一から19年をやり直すというわけにはいかないのである。
たとえば、僕がその体験を本に書いて、それが大大大ベストセラーにでもなれば、みんなの見方は一変し、その大きな失敗こそが、大きな成功を産んだんだね、と言ってくださるだろう。ただし、19年に見合うものになるためには、ベストセラーぐらいではだめで、「大」がみっつぐらいは必要となろう。
あるいは、残りの時間で、僕が実業家として大成功し、年商何十億円の企業でもつくりあげることができたら、19年の苦労も無駄ではなかったねと言ってくださるだろう。
現時点では、残念ながら、どちらも不可能なことに思える。
まあ、しかし、それはあくまで「社会的な」失敗と成功の話で、棺桶の蓋が閉まるときに、自分が人生に満足していたかどうかとは、また別の話ではあるが。
今の僕は古着屋だが、毎日のように、競りでの仕入れに失敗している。
幸い、仕入れの失敗は、自分で飲み込める程度なので、お客様や仲間に迷惑をかけずに済んではいるが、失敗を重ねているのは事実だ。
失敗の度に、顔から火が出る。
「馬鹿なやつ!」と大声で笑われるのはまだマシなほうで、場がシーンと静まり返り、「やっちまったなあ~~~~」みたいな声にならない声が場上に雲のごとく広がるときもある。
そんなとき、僕が晒しているのは、自分の無知であり、経験不足であり、洞察力の弱さ、観察力のなさ、集中力のなさである。
その場のみんなは知っているのに、自分だけそれに気づかず、愚かな僕だけが失敗してしまったという、どうしようもない状態である。
顔から火が出る。なんらかのアクションを示さなければならないので、「1.失敗したことを素直に認めて道化になる」か「2.失敗したように見せかけて笑いながら『あほなのはおまえらじゃ、これが儲かるんじゃ』という雰囲気を滲ませる」か、「3.動揺を押し殺して平然としている」か、そのどれかの行動をとるしかない。
大きなものをつかむためには、もっともっと失敗せよ、と簡単に言ってくれるけれど、失敗というのはほんとうに苦くて辛いものなのである。
些細な失敗であったとしても、とくに、それが人々の興味の視線にさらされているところでやってしまった時には。
みんな「失敗を重ねてこそ成功に至る」ということはわかっているけど、現実に失敗を次々にみんなの面前に晒していける人というのは、僕の見るところ、少数派である。
だからこそ、たしかに、それができる人たちは大きくなっていく。
僕が彼らより大きくならない理由があるとすれば、たしかに、失敗が足りないことがひとつの理由だと思う。
しかし、それだけではない。
James Clear氏の最新のブログを読んで痛感したのだが、「失敗を人に晒す勇気」も大事なひとつのことだけど、どんな「失敗」でも多ければ良いというものではない。
「はじめての失敗」「一度目の失敗」は、大いに経験すべきだ。人前に醜態をさらすと感じてもである。
しかし、「2度目の失敗」「同じ原因による失敗」は、全力をあげて努力し、避けるべきなのだ。「2度めの失敗」を失敗の数が大事だからと受け入れてしまうと、Clear氏もおっしゃるように、それが3度になり4度になり、同じ失敗をすることが、習慣となってしまう。
市場の仕入れで失敗したら、その商品のことをもっと勉強するなり、市の状況をもっと広く観察して理解するように努めたり、欲や見栄にかられて過大評価していないかを反省して、次に同じような仕入れのチャンスがあったとき、同じ失敗をしないようにする。
たしかに、大きくなっていく人たちは、何度でも人前に失敗を晒す勇気があるが、「2度めの失敗」はしないように、最大の努力をしているように思う。「失敗の数」と「失敗を晒す勇気」は大事だけれど、そこから多くを学んで、同じ失敗は決してしないということも、同じように大事で、それらが揃ってこそ、失敗は自らすすんでも経験すべきことなのに違いない。
失敗すればするほど成功に近づく。
1回目の失敗は多ければ多いほど良い。
人前でそれができる人ほど成功に近づく。
しかし、2度目の失敗は全力で避ける。
そして、致命的な大きな失敗はしないようにする。
きっと、それが成功に、社会的な成功に近づくコツなのだろう。