「ユミはまだ若いのに、よくホスピスで働く気になったわね」
アメリカのホスピスで働きはじめた当初、同僚によく言われた。
私が働いていたホスピスでは、スタッフの大半が40代から50代の人たちだった。自分の家族を看取った経験があるとか、職業柄たくさんの死を見てきたという人が多かった。
その当時25歳だった私にとって、死は遠い存在だった。死はいつか訪れるものだということは漠然とわかっていたが、あくまでもそれは、祖父母や両親など、「他の人」に起こることであり、自分にも訪れるという実感はなかった。
ホスピスで仕事をはじめてからも、その気持ちに変化はなかったと思う。大半の患者さんは年配の人たちだったからだ。
そんなある日、ルークという患者さんに出会った。彼の部屋に入る前、カルテを見て驚いた。
「ルーク・ウィリアムズ、26歳、骨肉種」
私と同い年の患者さんだ。
ドアをノックして開けると、痩せこけた男性がベッドに横たわっていた。私が挨拶をすると、彼は小さな声で「ハロー」と言った。大きい青い目が印象的で、背の高い男性だ。意識ははっきりしているようだが、エネルギーはなく、起きているのがやっとのようだった。
ふとテレビの上に飾ってあった写真が目にとまった。ハンサムな男性が、嬉しそうに生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこしている写真だ。
「この写真は誰ですか?」
そう聞いた瞬間、それがルークであることに気づいた。
「僕と息子さ。先月撮ったんだ......」
写真のルークは健康そのものだった。たったの1ヶ月で彼は別人のようになってしまったのだ。それにしても、何という質問をしてしまったのだろう。私の動揺に気づいたのか、ルークは笑顔で言った。
「気にしなくていいんだよ。僕はもう、このときの面影はないんだから......」
ちょうど赤ちゃんが生まれたのと同じころ、ルークは悪性の骨肉腫と診断された。余命が短いと言われ、そのニュースを受け入れる時間もないまま、彼の容態は一気に悪化した。
奥さんは仕事をしていたので、ルークは母親に看病されていた。がんの告知からたったの数週間で一人で立つこともできなくなり、痛みも激しくなっていった。家での生活が難しくなり、3日前にホスピス病棟に入院してきたのだった。
ルークのように突然死を宣告された場合、それに対する怒りがあるのが普通だ。特に彼のように若い人だったら当然だろう。なぜ自分がこんな目にあわなければいけないのだ? と誰もが思うだろう。しかし、ルークからは怒りは感じられなかった。 私が感じたのは、深い悲しみだけだった。
彼には赤ちゃんの他にもエリーという3歳の娘がいた。彼にとって一番の気がかりは、幼い子どもを残して死ぬことだったのだ。
「僕はいいから、子どもたちに音楽療法をしてくれないかな......?」
疲れた声でルークが言った。娘と息子が子どもらしく過ごす姿を見たい。それが彼の最後の願いだった。
次の週、子どもたちとのセッションをした。エリーは無邪気に微笑み、赤ちゃんを抱っこするかのようにして座った。私たちは一緒に「きらきら星」を唄いながら、楽器を弾いた。
ルークはベッドに横たわり、静かに子どもたちの姿を見ていた。セッションの後、彼が言った。
「今日は、2人が元気に遊ぶ姿を見れてよかった。ありがとう」
数日後、ルークは息をひきとった。
なぜ彼はこんなにも早く死ななければいけなかったのだろう? 愛する人たちがいて、これからの未来があるはずだったのに......。
死はいつも季節はずれに訪れる
ネイティブ・アメリカンの言葉を思い出した。
人間はいつ死ぬかわからない。若い人にも死は訪れるし、私もいつか死ぬ。それが60年後かもしれないし、6ヶ月後かもしれない、もしかしたら明日なのかもしれない。
ルークのように余命1ヶ月と宣告されたら、私はその時間をどう過ごすだろう? そんなことを初めて真剣に考えてみた。思いついたことを書き出してみると、その答えは意外に普通のことだった。美味しいものを食べる、犬とキャンプに行く、温泉に行く、好きな人と時間を過ごす、知らない場所に行ってみる。
やろうと思えばいつでもできることなのに、なぜ今それをしないのだろう?10年後も20年後も健康で生きていると思っている自分がいた。
これからはそういう生き方をしたくない。今を精一杯生きようと思った。
ルークとの出会いで、自分の死と向かい合わなければこの仕事はできないと気づいた。私と患者さんとの違いは、残された時間だけなのだから。
(「佐藤由美子の音楽療法日記」より転載)
著書『ラスト・ソング 人生の最期に聴く音楽』(ポプラ社)
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