遺品整理を頼まれることがある。
業務として積極的に受けているわけではないのだが、知人などに頼まれてお受けすることもある。
たとえば、こんな感じだ。
モノの価値を見極めなければならないので、誰かに任せるわけにはいかず、自分でその方のお家に行く。
たいていは、昭和後期ごろに建てられた家で、駐車場は1台分しかなく、自分が乗って行ったハイエースを家の前に路上駐車させていただく。
その家にはもう誰も住んでおらず、故人のものが放置されている。
その方が入院されるとか、介護施設に入られるとかして、すでに数年。
部屋の時間は、空気の動きは、止まっている。
依頼者がタンスの前に案内してくれる。
茶色く変色したたとう紙が積み上げてあり、それぞれのたとう紙には何が入っているかわかるように、覚書が書かれている。
「お母様、身長何センチぐらいでしたか?」僕はたとう紙を開きながら尋ねる。
「さあ・・たぶん、150センチぐらい」
「昔は、それぐらいが平均だったみたいですね。いまじゃ、平均は160センチぐらいになってしまったから、150センチの人の着物は売れないんです」僕は電話ですでに言ったはずのセリフをまた口にする。
たとう紙を開くと、大島紬の緯絣の着物が出てくる。
襟は当然バチ衿*1、襟には着用後の汚れ、白かったはずの胴裏は茶色になり、ところどころ濃くなって、斑になっている。
「あの頃の胴裏は悪くて、たいてい、こんな色になってるんです」僕は胴裏の変色を開いて依頼者に見てもらう。
「でも、それって大島紬なんでしょ?」
「そうですよ。素敵な柄だし、買われたときは高かったと思います。でも、今じゃこの大島、この状態、ほとんど売れません・・・」
次のたとう紙には「黒羽織」と書いてある。
念のために開くと、小学校低学年の頃、僕の母親が授業参観に着ていたような黒の羽織が出てきた。故人も、依頼者の授業参観に、この菊の模様の糸目友禅を施したこの黒羽織を着て行かれたに違いない。
あと数枚、丁寧に見る。
何人かの結婚式に参列したはずの黒留袖、嫁入りの時に持参されたものかピンクの付下、喪服・・・いずれも、サイズはない、胴裏は変色、バチ衿、そして、汚れか着用感あり。
その後はスピードを上げて、特別なものが混じっていないか、確認する。
もし、そこに、故人の母上の極上デザインのアンティークの着物が混じっていたり、銘仙のかわり柄が入っていたり、あるいは、宮古上布が混じっていたりすれば、ちゃんと値段をつけることができる。
だが、こういう流れの場合、その荷物に龍村平蔵の帯が混じっていることはない。
全部見終わって、僕は、興味津々でその様子を見ていた依頼者を見上げる。
「申し訳ないですが・・・お値段のつけようがないです」
「?」
「ご親戚の方とか、お友達に譲られたほうがいいと思います。手芸材料に使う方もおられますので」
「価値は、ゼロっていうことですか?」
「・・・・・」
できることなら手ぶらで帰りたい。
故人が残されたもの。
それが自分の肉親のものであれば、特別なものだ。
そこには家族の歴史があり、物語がある。
そして、それがほとんど無価値であるということは、残されたものには耐え難い事実だ。
それを宣告する役目が楽しいはずがない。
しかし、誰かがそれをしなくてはならない。
タンスいっぱいの着物。押入れの中に詰め込まれた、バッグや服や、引き出物にでももらったのか家庭用品の進物の数々。
それらすべてが無価値とは。
僕は死んだとき、何を残すんだろうか。
すべて無価値となる動産。
せめて不動産に価値が残ってくれれば良いが、これほど家があまっている時代だ。家にもどれほど価値が残るか怪しいものだ。
無形のものはどうか。
こうやってネット上に書き散らかした文章。
あるいは、僕が紡いだ人生の物語。
それらも、ただ家族の思い出の引き出しにしまわれて、やがて朽ちる。
なにかこの世に意味のあるものを残して死にたいとは思うけど、きっと、何も残さずに死んでいくだろう。
やっと運転に慣れた次女の車の助手席で、いま、この文章を書いている。
で、突然、気がついた。
横でハンドルを握っている次女の麦。
そういえば、彼女のDNAの半分は、僕のDNAだ。
ああ、そうか。
朽ちることのないものを、僕はすでに残していたのだった。
しっかりと生きてくれよ、そのすました横顔に向けて、僕は心の中でつぶやいた。
(2015年1月31日「ICHIROYAのブログ」より掲載)