雇均法なんてなかった(4)

社会人一年目の秋、母校に遊びに行った私の目はある求人票に釘付けになった。
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西武百貨店メディア事業部で働いていた社会人一年目の秋、母校に遊びに行った私の目はある求人票に釘付けになった。

前の年に「女子だから」と門前払いした産経新聞が女子学生を採用するという。雇均法施行を翌年に控え、さすがに露骨な性差別はできないと観念したのだろう。産経新聞としては「総合職一期生」----地方支局でのサツ回り(事件担当)からスタートし、泊まり勤務もある、男性記者と同じ処遇の初の採用だった。

この時点で、「産経新聞がどんな論調の新聞か。果たして自分に適した職場かどうか」など私の頭にはまったくない。閉ざされていた門が開くなら、くぐってみようじゃないか----ただ単にそれだけだった。

どこでどんな筆記試験が行われたのかは記憶にない。

ただ、昼休みに池袋から大手町まで地下鉄に乗って面接にでかけ、「昼休みが終わるんで、面接早くやっちゃってください」と厚かましくも頼んだ覚えがある。最後の役員面接では、〝議長〟と呼ばれた当時のトップに、フジサンケイグループの新しいシンボルマーク(今も使われている、あの目玉マーク)をどう思うか聞かれて、「猥褻な落書きみたいだと思います」と答えたことも記憶している。彼は大して気にした様子もなく、「何が特徴だと思う?」と重ねて聞いてきた。「手描きであること」と答えると、うれしそうに笑ったのが強く印象に残っている。

〝ジュニア〟と呼ばれたこの世襲経営者は、数年後に急死してしまうのだが、その頃はフジサンケイグループを自分色に染めようと動き始めたばかりだった。

何日かして、西武百貨店メディア事業部の自分の机の電話で、産経新聞内定の通知を受けた。携帯電話などない時代、平日昼間の電話は会社で受けるしかなかった。目の前に座る先輩がその電話を受けていたらどうなっていたのだろう?今から考えるとちょっと冷や汗が出る。

電話をくれた人事部の担当者はこう言った。「2年越しだったね」。前の年にさんざん、「門前払いはおかしい。試験を受けさせて欲しい」と抗議した相手だった。

11月の終わり(だったと思う)、直属の上司であるメディア事業部長に、12月いっぱいで退職したいと願い出た。入社からわずか9カ月という非常識さだが、同期生のうちで退職第一号ではなかった。2週間程度の新人研修のあと配属先が発表になり、「食品売り場」(実は流通の肝を学べる重要な持ち場だったのだが、当時の私たちは知る由もない)と言われるや否や「えーーーーーーーー!」と叫んで退職した女性がいたからだ。

ともあれ、わずか9カ月で辞めるという私に対し、部長の口から出た言葉は予想だにしないものだった。

「よし、わかった。僕も新聞記者を目指して試験を受けたことがあるから、君の気持ちはよくわかる。残る一カ月、外に出しても恥ずかしくないように育ててやる」

言葉を失った。

私などほとんど戦力になっていなかったから、引き留める言葉が上司の口から出るとは思っていなかったが、まさかこんな励ましの言葉をもらうとは思ってもいなかった。この上司は、後に西武百貨店社長になり、そごうとの合併後、そごう・西武の会長となる堀内幸夫氏である(調べると、5月18日付けで退任とある。長い間お疲れ様でした)。

結局、どこへ出しても恥ずかしい非常識なまま私は西武を後にしたような気がするが、このときの堀内氏のあたたかい後押しは忘れたことがない。