雲雀ヶ丘病院
堀 有伸
2013年6月19日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
私はこれまで日本社会におけるナルシシズム(自己愛)の成熟の困難と、その現れについて報告してきた。その目的は何よりも、本日説明する羨望(envy) という感情とそれがもたらす破壊性について明らかにし、その危険性が日本社会においてほとんど意識されていない現状について警告をうながすことであった。
強すぎる感情が自分の中で刺激される時に、人はその感情に呑み込まれてしまい、自らがその感情に突き動かされて行動していることに気がつくことができない。特に、自分が抱いている否定的な感情については、意識的な訓練を欠いている場合に自覚することが困難である。
精神科の治療技法に、anger management(怒りへの対処)というものがある。自らの怒りを自覚し、それを宥めるような行動に習熟することを目的としている。これによって、意識しないままに怒りに取りつかれて行動してしまうことを防ぎ、強い怒りが刺激されながらも、それを抑圧することから生じる内面の緊張感の高まりを緩和することができるようになる。同様のenvy management(羨望への対処)と呼ぶべき治療技法の開発が、このナルシシスティック(自己愛的)な社会においては強く必要とされているのかもしれない。
ナルシシスティック・パーソナリティー(自己愛人格)の特徴は、自らの自己愛的な満足が傷つけられた時の怒りと(憤怒rageと呼ばれることがある)、他者が自分の持っていない良いものを所有していると感じた時に生じる羨望の激しさである。
母親に抱かれている弟を見て、狂おしい苦痛を感じて顔を蒼ざめさせる幼児の姿。羨望がどういうものであるのかを説明するのに、そのようなイメージで説明されることがある。
羨望と嫉妬を使いわける場合、前者の方がより激しい原始的な感情であるとされる。嫉妬は、同じ社会や集団のなかで、ともに生きていく前提を当然と受け入れた上で、自分より優れたものを「うらやましい」と思うことである。これには日常の生活を活気づける肯定的な意味合いもある。それと比べると羨望が刺激された場合には、自分より優れたものの存在を許容できなくなってしまう。内的には、自分より優れた対象を破壊してしまうこと(自分より優れた存在を意識させられることは、自らの未熟な自己愛の満足を傷つけ、強い怒りを刺激するからである)、相手に取って変わってその良きものを簒奪することについての空想が活発となる。そして、この羨望の感情に無自覚なまま、それに呑み込まれて行動することは、自分もしくは相手を著しく傷つける結果に至る可能性が高い。
精神科の治療場面で、ナルシシスティック・パーソナリティーの治療は困難であるとされる。それは、その患者が治療者の持つよいものと出会った時に、その良いものを内在化させて自分の力へと変えるのではなく、それとは逆の治療者や治療関係を破壊することの空想が活発となってしまうからだ。現実的な問題解決を 目指すことよりも、羨望が刺激されることによって高まった内的緊張を、破壊的な行動を通じて発散させる快楽原則の方が優勢となりやすい。
さて、残念ながら現在の日本では、社会も個人もナルシシスティックな傾向を強めてしまっている。私の目からは、羨望とその破壊性が猛威をふるっている状況が頻繁に現れており、それが年々深刻になっているのであるが、その問題が意識されることは少ない。この機会にその内容が多くの方に共有されるようになるこ とを切望している。
「日本的ナルシシズム」においては、「自分の所属集団のために、自らを殺して献身する」姿が自我理想として掲げられていると論じてきた。そして、現実と出会う経験を通じて成熟することができないままに、空想のなかで自己愛的な自我理想が肥大した場合に、どのようなことが起こるだろうか。
「甘え」の研究で有名な精神分析家の土居健郎は、ある著書のなかで次のように論じている。「みんなを平等にしようとするのは、妬まないようにするためで す。平等とは妬みをなくすためにつくられた人間の知恵なのです。それが、現在の主なイデオロギーとなっているのですが、それでも妬みはやはり起きます」 「みんなが平等でなくてはいけない、差別を撤廃しましょう、と言っていれば、誰も妬みが問題になっているとは思わない。むしろみんなが拍手して、褒めてく れる。差別撤廃や社会正義などを一生懸命にやっていると、自分の妬みがどこかへ行ってしまう錯覚を覚えます。本当は妬みが存在するのに、妬みがないという 前提で話が進みます。そこに現在の非常に難しい問題があります」「妬みというものは、静かに潜行するから怖い。現実に深くひろく潜行しているのに、その妬みを認識しないで問題を解決しようとしている。今の日本は、そういう危険な状態に陥っていると思います」
ここから「出る釘は打たれる」という事象についての心理学的な解釈が可能となる。ある突出した人物が現れたとする。これは、ナルシシスティックな集団における各メンバーの強い羨望を刺激して、その突出した人物の欠点や弱点を明らかにしたいという欲望を煽る結果となる。そして徹底的に調べれば、その人物の自己本位な部分や集団よりも個人を優先している場面を見つけ出すことは容易である。そこで「完全な平等」と「自分を殺す献身」を理想としている集団が、個人を糾弾する根拠を手に入れる。その突出した個人は、徹底して足を引っ張られることになるが、足を引っ張っている当事者たちは、自らが羨望に突き動かされていることの自覚はないまま、「個人の名声や利益のために集団を利用する人物」を排除するための、正義を実現していると考えているのである。ここでは、集団にとって有為な人物と集団が適切な関係を作るという現実的な課題を達成するよりも、「見えない多数」が自らの羨望に由来する攻撃的な感情を発散させる材料として、有為な個人を道具として利用する快楽原則の方が、優先されているのである。
当然にこれは、いじめや自殺の問題とも関連している。優れていることも含めて、「自分を殺して集団に献身すること」を自我理想とする日本社会では、少しでも周囲と異なっていることは危険なのである。そしてこの傾向は、この数十年強まり続けており、ますますその危険性を高めているように思える。
その結果として当然、若い世代ほど、目立つ場所に出ることや、責任ある立場を引き受けることを回避するようになる。そして、そのようにして集団の敵意を向けられる可能性を回避した若者も、自らのナルシシズムを成熟させる機会を失い、万能感を満足させることができる空想に没頭する傾向が強まってしまう。
このような自己愛的な集団の凝集性を維持する方法としては、次の二つが用いられてきた。一つは「徹底的に平等を強調すること」であり、もう一つは「上下関係を明確にして、それを厳密に維持すること」である。日本において前者の平等主義が戦後に優勢となったが、戦前の軍国主義において圧倒的であった後者の考え方が、戦後においても脈々と生きていることは、日本社会に関わる人間であれば十分に理解しているだろう。もちろん、この二つは両立しない。社会をまとめるためのこの二つの原則の関係について、原理的な考察が深められる機会は極めて乏しく、その時々の力関係によって、二つの原則のどちらが優勢となるかが決定されてきた。そして、このあたりの「空気を読む」ことに熟達することが、日本社会で生きていく上で求められる能力であった。自戒も含めて、全く場当たり 的であったと言わざるをえない。
「ナルシシズムの成熟を促す」という観点からは、強いていうのならば、後者の「明確な上下関係を厳守する」集団の方が優れている点が多いように思える。自分の立場についての明確な限定を受けながら、特定の知識や技術に習熟することを通じて、具体的な問題解決に携わる機会に恵まれることは、未熟なナルシシズ ムの限界を知り、それを修正することを可能とするであろう。しかし、組織内の立場が強い人物が、組織の陰に隠れて現実と関わることを他人に押し付けてしま い、その成果は得ようとするが、責任は取らずに現場にいる当事者にリスクを帰する行為が横行した場合には、このように論じることはできずに、「平等主義」 の強みが主張されるようになる。
しかし、戦後の民主主義の問題も明らかである。「平等」が確保された集団の中でのみ過ごしてきた個人は、上下関係のある競争社会で自分が劣位にある時に刺激される羨望などの感情に対処する術が分からなくなっている。ディスチミア親和型という現代的な抑うつについての研究で有名な精神科医の樽味は、「この若い世代では、可能な限り競争原理が被覆された環境のもとで成長した場合が多い。前述のように、すでに競争原理の家庭内への持ち込みもなくなった世代である。その無風空間から何の備えもなく一般社会に出立したとき、実は存在していた競争原理に、彼らはいきなり直面することになる。彼らの神話であった「個の 尊厳」は、彼らが期待する形ではそこには存在しない。その意味では、この世代が越えねばならないギャップとしては、この50年間で最も大きくなっているかもしれない。それに対抗するために彼らがもっているものは、それまで試されることさえないままに保持されてきた、幼い万能感でしかないのである。それを守るためには、彼らは自己愛的にならざるをえない。それはもっとも罪業感から遠い症候を構成する」と論じた。
全体主義的なタテ社会のヒエラルキーの維持を主軸とした社会の運用方法と、戦後の万民平等主義の社会の運用方法が、硬直したまま相互排除的となり、どちらも健全に機能できていない現在の困難をいかにして乗り越えることができるだろうか。
その両者において理想とされる「自分を殺して全体のために献身する」というあり方には、美化されて隠ぺいされてはいるが、本当の意味で考え、決断する責任 を個人が負っているという事実が、回避されていると言えるのではないだろうか。私は、やはり西洋近代が達成した「自我の確立」という課題に取り組むことが必要であると考える。「近代的な自我」の問題点がその後の思想的な展開において、再三にわたって指摘され議論されてきたことを踏まえても、日本社会が直面している問題を解決するためには、この試みが是非とも必要であると考える。それは決して、社会や他の個人との力関係で自分が優勢になることのみを目指すのではない。そこには、羨望のような自分の否定的な感情についての洞察を持ち、それに対して責任を負える主体となることも含まれている。そして、「自分を殺す」という自我理想を断念し、自分の自我を確立することを通じて、他者の自我も尊重できるようになることが目指されるべきである。
それが可能となった段階で、多くの日本人が抱いている過度の「日本社会」への依存を、乗り越えていくことができるだろう。私が行っているような、日本社会についての空想を繰り広げることも、日本に対しての私の依存の現れなのだ。本当の自我が確立されている個人は、困難に出会った時に「日本が悪い」などとい う考えに没頭することなく、現実の問題解決のための道を探るであろう。私の饒舌は、そのような人々の実践に及ぶものではない。「日本的ナルシシズム」論に 意味や価値があるとすれば、それはこのような「日本」についての思弁を終わらせ、現実的な課題へと人々の目を向かわせることにある。
<参考文献>
土居健郎:聖書と甘え.PHP研究所,東京,1997
堀有伸:うつ病と日本的ナルシシズムについて.臨床精神病理,32:95‐117,2011
堀有伸:現代うつの語りを聞くこと.ナラティブとケア,3:14-21,2012
樽味伸,神庭重信:うつ病の社会文化的試論-とくにディスチミア親和型について-.日本社会精神医学会雑誌,13(3);129-136,2005
メラニークラインについての諸著作
(※この記事はMRIC Vol.149「羨望(envy)とその破壊性についての警告」より転載しました)