終戦の日といえば8月15日だが、正式には1945年9月2日に太平洋戦争は終わった。
今から69年前の9月2日、東京湾に停泊していた戦艦ミズーリ号の艦上で連合国に対する降伏文書「ポツダム宣言」に日本帝国政府が調印。第二次世界大戦は完全に終結した。
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私の祖母は長崎の出身で、今年で94歳になる。
最近、東京に帰るたびに彼女の娘時代の話を聞かせてもらっている。長生きして欲しいが、それでも残り時間はわずかだ。彼女は激動の昭和史を生き抜いた人であり、歴史の生き証人だ。彼女がかくしゃくとしているうちに、できるだけたくさんのことを聞いておきたい。
とくに戦前の「良かった時代」のことを、私たちはきちんと記憶に留めておくべきだろう。テレビや映画の現代史は、なぜかいつも敗戦後の日本から始まる。そのため忘れがちだが、戦前の日本は世界最強の戦闘機を作り、世界最大級の戦艦を量産できる先進国だった。開国からわずか100年足らずで欧米列強と肩を並べる大国に成長していたのだ。
もちろん民主制は立ち後れていたし、農村と都市部の貧富の差は現在とは比べものにならないほど悪かった。私の祖母が「良い娘時代」を過ごすことができたのは、長崎という先進的な土地に住み、父親が海運局職員という経済的に安定した家庭に生まれたからだ。
当時、日本の流行の最先端は東京ではなかったらしい。横浜、神戸、長崎といった港町が文化の発信拠点となり、銀座のファッションに影響を与えていた。
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たとえば受験勉強を、近所の個人経営の塾でしたこと。
親友の女の子と二人で受験して、二人とも合格できたこと。
父親の転勤により転校を余儀なくされ、県立長崎高等女学校に編入することになったこと。
編入試験が必要だと知った父が、「同じような試験を何度も受けさせるなんておかしか!」と怒り、学校に直談判しに行ったこと。(そして言い負かされてすごすごと帰ってきたこと)
歳を取ると、昔の記憶ほど鮮やかに思い出せるものらしい。祖母は娘時代のことを生き生きと語ってくれる。
現在よりも男女別学の意識が強かった時代だ。親戚のお兄さんと道端で喋っているだけでウワサになったし、男女の交際には今の何倍も厳しかった。長崎という土地柄、キリスト教信者の家庭も多かった。なんというか、『マリア様がみてる』を地でいくような世界だ。
学校という場所は、今も昔も変わらない。
国語・数学・英語といった基本科目は当時からあった。祖母は数学が苦手で、得意科目はアジア史だったという。当時の歴史系授業は「日本史」「西洋史」「アジア史」の三科目だったそうだ。祖母の話から想像するに、当時の彼女は背が低くて気弱な文科系少女だったようだ。
パンを食べる文化が日本に根付いたのは高度成長期だというが、長崎という土地柄か、昼休みになれば購買には様々なパンが並んだ。コッペパン、ジャムパン、あんパン。食パンには小さなお砂糖の袋がついていたという。当時はまだ小分けになったマーガリンやジャムが無かったのだ。紙パックの牛乳もまだないから、昼休みの飲み物はもちろんお茶。日直になった生徒が、給湯室から大きなやかんを二人がかりで教室まで運んでいた。
お昼ごはんは母親の作ってくれたお弁当で、購買で買ったパンは部活後に小腹を満たすためのモノだった。当時からバレーボール部や籠球部があり、少女たちが汗を流していた。
祖母の後ろの席だった荻原さんもそういうおてんばな女の子の一人で、いわゆる「早弁」の常習犯だった。二時間目が終わる頃にはいつも教科書を机に立てて、弁当をかき込んでいたらしい。あるとき、見かねたアジア史の教師が注意した。
「おい、荻原! 何をやっているんだ」
彼女はあわてて弁当を隠した。けれど、ほっぺたにはご飯粒をつけたまま。
「す、すみません!」
「まったく……」教師はため息を漏らす。「きちんと噛んで食べなさい」
良い先生である。
もちろん好きな先生がいれば、嫌いな先生もいた。とくにお裁縫の先生と祖母は犬猿の仲だったらしい。ことあるごとにイヤミを言われたし、提出物の羽織りをけちょんけちょんにダメ出しされたこともあるという。
で、祖母は切れた。
徹夜で羽織りを縫い直して、そのイヤミ教師に「目にもの見せてやった」そうだ。クラスメイトからは拍手喝采だったという。
いつか東京で洋裁を勉強したい――。
祖母はそんな夢を持つようになった。
女学校を卒業後、祖母は三菱造船に就職する。今でいうOLの元祖だ。当時はコピー機などないので、図面や書類をすべて手作業で複写していた。女学校で英語を習っていた祖母は、海外の学術誌をトレース紙に写す仕事をしていたらしい。技師さんから「ここからここまでコピーしといて」という注文を受けて、カリカリと手書きで写していた。もちろん仕事はそれだけではない。設計図を青写真に写したり、それこそお茶くみをしたり。十代の終わり頃を、祖母はそうやってすごした。
余談だが、長崎の三菱造船といえば戦艦・武蔵を建造したところだ。祖母の触っていた設計図のなかにはもしかしたら――なんて想像をすると楽しい。
祖母は夢を捨てきれず、三年ほどで退職。貯金を使って上京し、東京の洋裁学校に入学した。2年間で修了する専門学校だ。五反田駅近くの学校の寄宿舎には、夢を同じくする若い娘たちが集まっていた。遊びに行くときはいつも都電を使っていたという。今でこそ荒川線しか残っていないが、当時の都電は市民の足として大活躍していた。五反田から白金猿町に向かって、路面電車が坂道を登っていた。
ただし戦争はすでに始まっていたし、日に日に戦局は悪化していた。都電の車窓から外を眺めると、道路脇のいたるところに防空壕が掘られていたという。
『戦場よさらば』『ある夜の出来事』……祖母とは古い映画の話で盛り上がる。
上京前、彼女は映画館によく足を運んでいたそうだ。当時、長崎の映画館はハイカラな人々の集まる場所だったらしい。ところが東京のそれはいかがわしい不良のたまり場だった。私たちの感覚でいえば一昔前のゲームセンターみたいな感じだろうか。若い娘が一人で入るような場所ではなかったと祖母は言う。
では、真面目で人見知り気味の祖母はなにを娯楽としていたのだろう。華の都・東京で、どんな生活をしていたのだろう。
当時はミルクホールというものがあったらしい。若い娘でも気軽に入れる喫茶店・今でいうスタバみたいなポジションお店が街じゅうにあったそうだ。友だちとミルクホールに入って、トーストとカフェオレでお喋りをする――そんな東京の生活を祖母は満喫していた。
楽しげな東京での暮らしだが、モノが無くなりつつある時代だった。トーストの厚さは日を追うごとに薄くなり、奮発してお寿司屋さんに入ったらシャリに刻んだジャガイモが混ぜられていてガッカリした、なんて経験もあるそうだ。
戦局の悪化にともない、祖母は実家へと引き戻される。
その後の苦しい生活は反戦映画などでたびたび描かれてきたとおりだ。
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そして八月九日、祖母は長崎で被爆する。
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戦争中がいかに苦しかったか、終戦後いかにモノが無かったか。私たちはそんな話ばかりを聞かされて育ってきた。だけど本当に学ぶべきなのは、戦争が始まる前の「良かった頃」だ。私たちの祖母・曾祖母の時代の「楽しかった記憶」だ。
輝かしい時代があったことを知らなければ、奪われたものの重大さにも気づけない。
長崎への――人類史上二度目の核攻撃は、死者73,884名、重軽傷者74,909名の被害を出した。なお、東日本大震災は死者15,889名、負傷者6,152名、行方不明者2,609名である(※2014年8月8日時点)。自然災害と比較するべきではないが、この数字だけでも桁違いの惨事だったことが分かる。7万人を超す死者の中には祖母の後輩:長崎高等女学校に在学中だった191名の少女も含まれている。
戦争は遠くのジャングルや砂漠だけで行われるのではない。一般市民の暮らす都市さえも攻撃対象になり、戦場になる。戦争が「悪」なのは、モノが無くなるからでも、生活が苦しくなるからでもない。それまでのしあわせを破壊しつくしてしまう、だからこそ戦争は「悪」なのだ。
イスラエルとパレスチナを始め、世界では紛争が続いている。しかし文化圏が違いすぎて、日本人は戦争を身近な問題に感じにくい。だからこそ、私たちは年配者の言葉に耳を傾けよう。日本人がいちばん最近に経験した戦争について知ろう。今の日本で戦争を肯定する者は、大抵、自分は戦争を経験していない。
このエントリーを読み終わったら、どうか身近な“その頃の人”に尋ねてほしい。
「あなたの子供のころを教えてください」と。
※参考