モデル業界で最高のブランドであるFORD MODELSを育て上げ、現在のモデル業界の慣習の少なからぬ部分を構築したアイリーン・フォードが7月9日に死去しました。92歳でした。
FORD MODELSはクリスティ・ブリンクリー、ジェリー・ホール、グレース・ジョーンズ、クリスティ・ターリントン、ナオミ・キャンベル、エル・マクファーソン、ジーン・シュリンプトン、キャンディス・バーゲン、アリ・マッグロー、ジェーン・フォンダ、ローレン・ハットン、キム・ベイシンガー、ブルック・シールズ、マーサ・スチュワートなどをデビューさせたエージェンシーとして知られています。
モデル・エージェンシーは米国の店頭ピンクシート株であるウィルヘルミアと、エリートのフランス国内の事業(=米国エリートは別のオーナー)を除けば非上場企業ばかりです。
その関係で各社の事業規模を正確に把握することは難しいですが、現在の競争地図は下の図のようになっています。
アイリーンはニューヨークのバーナード・カレッジに在学中にモデルのバイトを始めます。バーナード・カレッジはそれまで男性にしか門戸を開いていなかったコロンビア大学の「女子部」として、ブロードウェイを挟んだ向かい側に1886年に開校した名門校です。
その関係で、海軍将校で、兵役の合間にコロンビア大学で学んでいたジェリー・フォードと知り合い、結婚します。
バーナードを卒業したアイリーンは学友がモデルのバイトをする際、そのマネージャーとしてスケジュールを管理する仕事をしていました。戦争から帰ってきた旦那のジェリーは、大学で会計学を勉強したので、アイリーンのビジネスの番頭になります。
当時のモデル業界には、役務に対する報酬支払いに関し、ちゃんとしたルールがありませんでした。このため仕事をしても半年から1年もモデル料を払ってもらえないのが普通でした。
そこでアイリーン・フォードはバウチャー・システムを考案しました。
バウチャー・システムとは、モデルがその日の仕事を終えると、裏がカーボン紙になっている三枚綴りのスリップに、クライアントからサインをもらい、一部を請求書としてクライアントに渡し、もう一部をモデル・エージェンシーの経理部へ提出し、最後の一枚をモデル自身の控えとして保管するシステムです。
モデル・エージェンシーはこのスリップを元に翌月の給料日にモデルに支払いをします。しかしその仕事に対するクライアントからモデル・エージェンシーへの支払いは40~60日後になるので、実質的にモデル・エージェンシーがモデル料を立替え、売掛金の支払いの催促を代行する役目を引き受けるというわけです。
いま仮にあるクライアントがモデル・エージェンシーに「あの娘を寄こしてほしい」とリクエストしたとします。そして、その対価として1万ドルという金額に合意したとします。その場合の請求額と関係者の取り分は、下の図のようにまとめることができます。
通常、分け前はモデルが8割、エージェンシーが2割です。しかしエージェンシーは名目ベースで1万ドルの仕事を受注した場合、外枠で2割の「サービス・チャージ」を上乗せしてよいことになっています。
つまり実質的にはエージェンシーは1万2千ドルの請求書を送り、支払われた1万2千ドルの中から4,000ドル(=グロス請求額の33.3%)を取ります。
もうひとつのアイリーン・フォードの「発明」は、モデル・アパートメントです。
モデルと独占契約を結び、専属になったモデルに対してはエチケットや身だしなみを厳しく指導し、いわゆるモデル・アパートメントと呼ばれる寮生活をすることを要求しました。
フォードの運営するモデルの寮には厳格な門限があり、夕食もアイリーン・フォードと一緒に取り、その様子はまるで修道院のようだったそうです。
ジャーナリスト、マイケル・グロスはその様子を「フォード・モデルズは50年の間、礼儀作法と清廉な道徳の要塞となった」と記述しています。
これはセブン・シスターズと呼ばれた名門リベラルアーツ・カレッジであるバーナード・カレッジ出身のアイリーン・フォードらしい経営スタイルであり、風紀の乱れていた他のモデル・エージェンシーとは明らかに一線を画す経営と言えるでしょう。
逆に言えば、アイリーン・フォードの厳格かつ傲慢な経営スタイルは、若いモデルたちを震え上がらせ、惨めな思いをさせたわけです。
「おまえはスーパーモデルを目指せ!」なんて、よくもそんな残酷なことが言えたわね (ニューヨーク三部作) [Kindle版]
(2014年7月12日「Market Hack」より転載)