久しぶりに教育の本を読みました。これまで「若者政策」や「シティズンシップ教育」、「ユースワーク」というキーワードで色々学んできましたが、このどの言葉も使わないで市民参加型の民主主義社会の礎となる、教育のあり方に通じる考え方を論じている本でした。
筆者は、民主主義の礎となる教育のあり方について、「自由の相互承認」と「一般福祉の原理」について最初に触れています。しかもかなり時代を遡って。
公教育が発明される前の身分社会においては、人びとは時として、身分が違えば相手を同じ人間だと思うことさえありませんでした。それが今日、わたしたちが曲がりなりにも、どんなに価値観の違う人でも、肌の色や言葉が違っても、障害があっても、皆同じ対等な人間同士であると思うことができているのは──つまり〈自由の相互承認〉の〝感度〟を一定程度身につけているのは──文字通り学校教育のおかげなのです。
教育政策は、ある一部の人(子ども)たちだけの〈自由〉を促進し、そのことで他の人(子ども)たちの〈自由〉を侵害するものであってはならず、すべての人の〈自由〉を促進している時にのみ「正当」といえる。これが〈一般福祉〉の原理です。
学校教育(義務教育)の入り口において、その機会を均等にするということ、そして出口において、〈自由〉のための最低限の力を必ず保障するということ、この二つの「平等」は、〈自由の相互承認〉の原理に基づく限り、なくてはならないものです。
そのうえでどのようにして「相互承認」の力をつけるのかを論じています。
「相互承認の感度」を育むためには、価値観や感受性の異なる者同士の間に、何らかの「共通了解」を見出す経験を積む必要があります。多様で異質な人たちが、それでもなお、なんらかの形で了解し合う、あるいは納得し合おうとすることは、〈自由の相互承認〉を支える重要な態度だからです。
しかし今の学校教育には、そうした「共通了解」を得るための〝考え方〟〝議論の仕方〟を学ぶ機会がほとんどありません。
なんか「ディベート」っていうと「あああれか中学の時にやった」「確かにあれは論理的に話す力がつく」で片付けられそうですが。。。僕はこの部分に大学や学生時代に、多様な人で構成される市民活動や社会貢献サークルなどをやることの意義につながるのじゃないかなと思いました。もちろん市民活動である限りミッションの実現を目指しての活動ですが、あえて事後的な意味を付与するならばです。「大学時代に社会貢献サークルやると、「相互承認の感度」がつくよ」とかいったら意味不明ですが、僕は結構しっくりきています。活動量が高くなり意思決定の回数が増えて仲間と議論が増えてくると「相互承認の感度」を高くしないとまともな意思決定ができない団体になってしまいます。
そして生徒のカリキュラムへの参加についても。
子どもたちもまたカリキュラム編成にかかわることを提案しています。「このような参加は、知的発達を促進するばかりでなく、民主的過程に知的に参加することができる市民の育成にもつながる」(ノディングズ二〇〇七、三一五頁)というのです
若者政策、ユースワークで核となる「参加」とも共通します。社会的排除に対するヒュマンライツアプローチの文脈で参加の重要性が謳われるヨーロッパと比べると、教育的な意味合いが強いですが。(スウェーデンでも生徒がカリキュラムに関わる動きがありました。)
さらに、新自由主義下における現在の安部政権下の日本の教育政策についても以下のように論じています。
「そこで、特に格差の拡大とともに社会的な不満が広がることを予測した新自由主義改革派は、教育において、愛国心や伝統の尊重、道徳意識の滋養といったものを重視し、競争に勝てなかった人々の不満を前もって抑えておこうとする戦略に出たと言われています(広田、2009)今日、特に「新保守主義」といわれるものです。それはある意味では、教育を通して人びとの価値観をある程度統合しようという考えだといえます。」
「近年でもたとえば第一次安倍内閣の2006年には、『伝統と文化の尊重』や、『わが国と郷土を愛する』といった文言が加えられた、教育基本法の改正が行われました。第二次安倍内閣の2014年現在は、『グローバル人材の輩出』や『道徳教育の強化・教科化』が、特に力を入れて議論されているテーマです。まさに、新自由主義と新保守主義の価値観が、改革の柱とされているのです。」
そうです。道徳教育の導入や愛国主義的な色合いを強めたのには、社会的に力を持てなくなった人たちを抑え込むためというのです。視点は変わりますが、この点はアメリカの政府による監視活動を内部告発したエドワード・スノーデンの保護を助けたジャーナリスト、グリーンウォルド氏の指摘と共通します。彼は政府機関が監視を強めている背景には、ここ数年で勃発している暴動や大規模抗議活動、反対運動などに対して、抑圧的に反乱異分子を防止するためだとしています。その暴動や抗議活動の理由に、経済格差が引き起こす社会不安だというのです。日本でいうなら特定秘密保護法の施行がこの文脈にあてはまります。道徳教育の導入も監視の強化もそういうわけだったのです。冒頭の民主主義的な教育と対極にあることがわかります。
最後にもうひとつ。ハンナアレントを引用して大人の姿勢と教育の限界についても触れています。
二〇世紀の哲学者、ハンナ・アレントは、「子供たちに将来の精神を教えこむことによって世界を変えることができるというアイデアは、古代からずっと政治的なユートピアの顕著な特徴の一つだった」(アレント二〇〇七、二五八頁)と述べ、そのようなユートピアに望みを託す大人たちの〝無責任〟を批判しています。自分たち大人が解決すべき問題を子どもたちに託す、そのような〝無責任〟さに対する批判です。
まさに我が意を得たりです。日本では子ども・若者の参加が重要と叫ばれますが、その前に大人もこれまで一市民として社会に参加できてたのでしょうか。それを知りつつあるいは知らずに若い世代を応援していていいのでしょうか。「大人である」いち教育者自身への問いかけでもあります。先生たちが、大人がどう社会と向き合ってくのか見たいのです。
【引用した記事】
(2015年1月9日「Tatsumaru Times」より転載)