病気で弱っているときに支えてくれる頼もしい存在、看護師。
そんな看護師のことを「日常のヒーローなのにあまり重要視されていない。だから光を当てたかった」と話すのは、ドキュメンタリーの名匠ニコラ・フィリベール監督だ。
監督は最新作『人生、ただいま修行中』で、フランス郊外にある看護学校に通う、年齢も性別も出身も違う40人の学生たちの成長を150日にわたって記録した。
世界的にヒットした『ぼくの好きな先生』や『パリ・ルーヴル美術館の秘密』など、数々の優れたドキュメンタリーで知られるフィリベール監督。彼が被写体に向ける眼差しは真摯で温かい。
その温かい視点は、最新作でも変わらない。最初は注射を打つべき血管もわからず戸惑っていた看護師の卵たちの成長が、フィリベール監督ならではの視点で描かれている。
彼らにどんな気持ちでカメラを向けたのだろう。日本公開を前に話を聞いた。
――これまで農村部の少人数学校や、ルーブル美術館で働く人々など、様々な生き方をする人たちをテーマに映画を撮影していますが、今回なぜ看護学校を舞台に選んだのでしょうか?
(一瞬考える)そう聞かれると、僕自身もなぜかなと自問します。
というのも、テーマの方が僕の前に現れるんです。「撮ってくれ」という風に。自分の前に歴然と現れるわけなんです。
私の場合、作品は誰かに出会ったとか新しい世界を知ったとか、そういう人生の偶然性から生まれます。自分でどのテーマを選ぼうと考えることは一切ありません。自分としても、それには非常に不思議な部分があります。
そして今回は、僕自身が入院したというきっかけがあったと思います。退院して回復した時に、看護師たちにオマージュを捧げるような作品を作りたいなと思ったんです。
私は人間の生き様や人間ドラマに興味があるのですが、看護の世界には普遍性があるではないですか。一部の人たちだけの世界ではなくて、私たちが遅かれ早かれいつかはお世話になる、その現場ですよね。
そして、評価されるべき職業であるにもかかわらず、看護師という職業の地位は、あまり社会では重要視されていない。だから光を当てたいと思ったんです。
――看護師は、重要視されていない?
街角でインタビューをしたら、看護師さんの仕事ってすごく素晴らしい仕事ですねという答えが返ってくると思うんです。だけど現実は、医療ヒエラルキーの中では重要視されていません。実際は、非常に重要な立場にいる人たちなのに、医者と比べて低い立場に置かれています。
看護師は、体力的にも大変な職業です。パリのような大都市だと、看護師さんたちは6時くらいに起きて、1時間半くらいかけて出勤します。子育てをしている人もいるでしょう。そんな大変な職業なのに何か軽視されている。真実との間に、すごく大きな溝があると私は思うんです。
そういう立場に置かれていながら患者のために働いている看護師を、私は「日常のヒーロー」と呼びたいです。
――『人生、ただいま修行中』の中で、監督は音楽を全く使っていませんね。ドラマチックに見せようという演出もあまり感じられませんでした。なぜでしょうか?
ドラマチックというのは必ずしも、スペクタルというものではありません。健康とか病気で苦しんでいる状況というのは、特にね。
今、映画の中には音楽があふれています。でも、必ず音楽がなければいけないものでしょうか? 私は恣意的に感情を揺さぶろうとか、これでもかと押し付けがましい念押しのような形で音楽が使われていることが多いと感じます。
私がいつもカメラにおさめたいと思っているのは、そういった作られたドラマチックさではなく誠実な姿、そして真摯な思いです。私にとって作品とはそういうものなんです。恣意的なものは存在しません。
私の被写体になってくれた人たちの感情は、オーセンティック(真実)なものです。だからそこに、何かをプラスしたり強調したりするのは好きじゃないんです。
――それはつまり、映画で学生たちの日々を再現したかったということですか?
映画というのは全て、「主観的な選択の連結」です。ドキュメンタリー=現実ではない。そこには必ず作り手の主観、チョイスがあるわけです。
つまり私のドキュメンタリーは、私の視点なんですよ。
学生たちの行動や発言はもちろん現実です。やらせはありません。でもニコラ・フィリベールではない監督が同じ状況でカメラを回して映画にしたら、きっと全く違う作品になっていると思います。カメラワークも編集も違うでしょう。選ぶ被写体も変わるかもしれない。
5カ月の撮影の間、山のようにたくさんの出来事が起きています。数千個の作品が出来上がるくらい、豊かな出来事がありました。
つまり、現実は一つじゃない。そしてそれを一つの作品にするのは、それは監督であり撮影者であり編集者である、私の主観なのです。
――その監督の主観の中に、受け手に伝えたいメッセージは含まれているのでしょうか?
私の場合、映画はメッセージありきではありません。私の映画は、何かを伝えたいというものではないんです。メッセージを伝えるだけだったら講演など、他に方法はいくつもあるしね。
「この映画のメッセージは何でしょうか、だいたい2行くらいでお願いします」と言われることがあるんですけれど、1時間45分の映画がたった2行のメッセージに要約されてしまうなんて悲しいですね。それくらいだったら、その2行を書いた横断幕を掲げて、旅行でもした方がいいですよ。
作品がメッセージを伝えるのでなくて、作品の方が看護の研修を受けている学生たちに会いに行くんです。扉を叩くように。
色々な出会いがあります。とっても豊かな出会いですよ。特に今回の映画には、たくさんの人が出てくれているので、いろんなストーリーがあります。
観客たちは、その出会いから少しずつ看護の世界や看護の職業のこと、この職業の大変さや豊かさを知っていくのです。
18、19歳の若い看護学生が、末期の患者や患者の苦痛に直面するといった大変さを、観客は実感するでしょう。
自分の子供の時の記憶や、自分の経験に照らし合わせて見る人もいるかもしれません。
そういった出会いにはとても豊かなメッセージがあるわけです。
だから私は看護の世界や看護師になろうという人に観客の目を向けようとはしていますが、映画を通して何かメッセージを伝えようとしているわけではありません。
現実は常に複雑なものなんですよ。看護師の職業もすごく複雑です。
充足感や喜びがあり、人の役に立っていると実感できる。人間的にはとても豊かな職業です。
その一方で、肉体的にも精神的にもきつい。労働時間は長いのに、低賃金。医療ヒエラルキーの下層部に置かれていて、重要視されていない。
そういった複雑さを知ることができるのかもしれません。
――映画を撮って、監督自身が実感したことはありますか?一番心に残った出来事を教えてください。
私にとってこの映画は、学びの連続でした。本当にたくさんの方々にお会いしましたし、たくさんのドラマや物語を聞きましたよ。撮影前より賢くなったかなと思います。
一番心に残った出来事ですか?うーーん(しばらく考え込む)。ノー、ありませんね。順位付けしたくないんですよ。
興味深いこと、感動したことはたくさんありました。だけどどれも、甲乙つけがたいです。こっちの方がよかったという風に順番はつけられませんね。
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『人生、ただいま修行中』は11月1日(金)から新宿武蔵野館他全国順次公開