安倍晋三首相への批判が広がっている。
新型コロナウイルス対策は後手にまわり、布マスク2枚の配布もうまくいっていない。賭けマージャン問題まで発覚した検察庁法の改正をめぐっては、Twitterデモを機に多くの反対意見が出てきた。毎日新聞や朝日新聞の世論調査でも、内閣支持率は30%を切った。日本経済新聞社とテレビ東京が6月上旬に実施した調査では38%。こちらも下がった。
そんな中、『2:5:3の比率』と『死者の声』という2つのキーワードで、いまの安倍政権を分析するのが、政治学者の中島岳志・東京工業大学教授だ。
どういうことだろう?そして今後の安倍政権はどうなるのか。中島教授に語ってもらった。
安倍政権は選挙に近づけば近づくほど「政治を盛り上げない」
2012年12月から続く第2次安倍政権は、これまで選挙が近づけば近づくほど「政治を盛り上げない」ことを目標にして、政権を維持してきました。
まず、安倍政権および自民党幹部は、日本の有権者を『2:5:3』という比率でみています。
全体のうち2割が野党支持、5割が無党派層、そして3割が自民党などの与党支持だという見方ですね。
このうち与党支持である「3割」が崩れると選挙で負ける可能性があります。
もし自民党以外の新しい政党の「ブーム」が起きて、それまで政治に関心がなかった「5割」が動き出すと、より危機的になります。
3割を崩さないようにしながら、5割が政治に無関心なままでいてくれるように、安倍政権は注意深く動いてきました。そのようにして、できるだけ「盛り上げないように」して、長期政権を維持してきたのです。
「憲法改正」などの議論を思いついたように始めて、保守派にウケる「ネタ」をたまに投入するのも「3割」を維持しようとする戦略です。
今後も、「安倍内閣でないと、憲法改正はできない」という思いが強い日本会議などの右派層を固めつつ、政治への関心が薄まる作戦を採っていくように見えます。
失敗し続けることで「成功」するのが安倍政権
次のポイントとして、安倍政権が「時間かせぎの政治」と「期待値の操作」(吉田徹・北海道大教授)を行ってきたことが挙げられます。
たとえばアベノミクスは、大胆な金融政策とされていますが、実際の景気が良くなっている実感は乏しいですよね。
それにも関わらず、選挙のたびに「アベノミクスが成功していないのは、道半ばだからだ」と安倍政権は言い続けます。
「もう少し我慢をすれば、果実が行き渡る」という、国民への誤魔化しのメッセージなんですね。いわば、失敗し続けることによって「成功」してきたのです。本当に成功すると、「道半ば」とは言えないですから。
ただ、そうしたからくりが、新型コロナの感染拡大以降、揺らいでいるのではないでしょうか。
憲法改正の「期待値の操作」をする狙い
最後に残されているのが、右派層に対する「憲法改正」という期待値の操作です。
世論調査の結果を見ても、憲法改正は極めて難しい。安倍内閣にとって重要なのは、憲法を改正することよりも、憲法改正の期待値を操作することで、固定票を維持することです。ここをよく見ておく必要があります。
新型コロナとリーマンショックを比べる
新型コロナによって、2008年〜2009年ごろのリーマンショックと同じように、世界経済は大きなダメージを受けています。
リーマンショックによる景気の悪化は、当時の民主党政権が誕生するきっかけの一つにもなりましたが、あの頃の有権者は古い政治体制に対するNOと同時に、リスクを個人に押しつける「新自由主義的な価値観」へのNOを示しました。
今回も同じではないでしょうか。たとえば私がかつて住んでいた北海道(注:中島氏は、北海道大准教授も務めた)を考えてみましょう。
北海道は、酪農が盛んですが、新型コロナの感染拡大による外食の衰退や小学校の臨時休校で牛乳や乳製品の消費が落ち込んでいます。長引く自粛で、中小企業や商店街なども苦しんでいます。
新型コロナで変化した「あるリスク」とは
同じような課題を抱えている地方は多く、「コロナの経済補償が行き渡らないではないか」「政権は何をやっているのか」という批判がこれから与党支持層にも広がる可能性があります。
安倍首相は、経済においては小泉路線を引き継いでいることもあり、新自由主義的な価値観でもある「リスクの個人化」という政策を重んじてきました。
一方、こうした経済危機のときは「リスクの社会化」が見直されます。
これは、様々なリスクに対して、社会全体で対応するべきだという考えで、政府はそのためセーフティネットを強化したり、お金に余裕がある世帯から多く税金をとり、苦しんでいる人や社会的弱者への再配分を大きくしたりします。
いまは、コロナというリスクを社会全体で受け止めるべきだという機運が高まっている。
そうすると、安倍政権的な「リスクの個人化」への考えは反発を呼び、先ほど申し上げた「3割の支持層」が揺らぎ、「5割の無党派層」が動き出す可能性があります。
既に民主主義は危機を迎えている
ただ、そうした不満が高まっているにもかかわらず、受け皿となる政党が今の日本にはありません。
なぜでしょうか。
この20年、私たち政治学者は「ポストデモクラシー」について議論してきました。
たとえば世界的に先進国では投票率が下がっていますが、要因のひとつとして、新自由主義経済の席巻があげられます。
あえてシンプルに言うと「政治がやれることを小さくして、マーケット(市場経済)に任せましょう」という考えです。
そうすると、民衆には「政治がやれることが少ない」という意識が芽生え、投票に行っても「意味がないな」という気分が生まれます。そして少数のエリートが勝手に決めてしまう政治につながります。
政治に「闘う空間」がなくなった?
民主主義の危機において、「ポスト(次世代の仕組み)」は何かと考えたとき、出てきたのが「闘技デモクラシー」や「熟議デモクラシー」などの構想です。
前者は、ベルギー生まれの政治学者シャンタル ムフが代表的論者です。少数者が決める政治には「闘う空間」が失われたと考え、この時代において敢えて「対立すること」の大切さを説きます。
「敵対」という意味ではなく、苦しんでいる人の声に耳を傾けて、大衆の情念を突き動かして、社会的な争点を明確にすることを是とする考えです。
後者の「熟議デモクラシー」は、それぞれの有権者が、話し合いを通じてお互いの要求を吟味することで合意形成を図る考え方です。タウンミーティングを繰り返す世田谷区の保坂展人区長の考えが近いですね。
立憲民主党が「支持を拡大できない理由」
こうした潮流を考えたうえで、自民党の対抗軸と位置づけられる立憲民主党を見てみましょう。
まず代表の枝野幸男氏は「エリートっぽさ」が抜けず、闘技デモクラシーを盛り上げるための「大衆の情念」を掴めるとは思えません。
また、立憲民主は、ふつうの市民が政策議論に関われる「立憲パートナーズ」を立ち上げ、熟議デモクラシーを目指してきましたが、国民民主党との連携のゴタゴタなど、随所で「永田町っぽさ」が露わになります。
民衆からすると「自分たちから遠い政治」をやっている集団に見えてしまいます。
「対立」を作り出す山本太郎の可能性とは
そういう意味では、山本太郎氏は、新自由主義の恩恵を受けている政治家や経済界と「対立」し、苦しんでいる人の声に耳を傾けていますよね。
安倍政権の新型コロナに対する経済政策が行き届かない中小企業や生活者の共感を呼ぶかもしれませんし、エリート色の強い旧民主党の人たちと違って、「祭りの神輿を一緒に担いでいる」タイプの人です。
自民党が大事にしている「3割の支持層」や、政治に興味がなかった「5割の有権者」の心を動かすかもしれません。あえて無責任な事を言えば、東京都知事選に山本氏が立候補すれば、政治は動く可能性があります。
もし山本氏が東京都知事選に出るとしたら
小池百合子都知事も安倍首相も、基本的には「リスクの個人化」と「パターナリズム」(権威的な価値の介入主義)を指向する日本型ネオコンです。
吉村洋文・大阪府知事の維新も同様です。この路線に対して、もう一つの世界観と選択肢を提示し、世論を喚起できる存在は、いまは山本太郎氏が筆頭でしょう。
あくまで想像ですが、もし都知事選挙に出れば、対立軸が明確になります。コロナ後の世界のあり方をめぐる大きな争点が明示され、政治意識を喚起するでしょう。注目したいと思います。
安倍首相は「主体的に」動く政治家なのだろうか
安倍首相は、アベノマスクにしても、その他のコロナ対策についても、「何も考えていないのではないか」と思えてしまいます。
自身が積極的に動いたのはおそらく東京オリンピック・パラリンピックの1年延期ぐらいで、あとは官僚が書いたシナリオに従っているようです。
そもそも先ほど申し上げたように、長い間、政治を「盛り上げない」ことに専念してきた政権でもあり、安倍首相自身は、何か「主体的に」動くような政治家ではないと思います。
あえていえば今回のコロナのような「リスク」ではなく、イデオロギーなどの「価値」に関心があるタイプの政治家です。
ただその価値も単に「リベラルが嫌い」という部分に寄るところが多く、本当の意味で信念を持った保守政治家であるとも思えません。
死者の声に耳を傾けない政治家
さらに安倍首相の特徴をあげるとすれば「死者の声」に耳を傾けないということです。死者とは、今を生きている私たちではなく、すでにこの世を去った先人たちのことです。
そうした先人たちは、様々な失敗体験に基づいて、たとえば「三権分立は大事ですよ」とか「ルールにそって物事を決めましょう」ということを大切にしてきました。こうした知恵が憲法や法律に書き込まれています。
今を生きている人だけで物事を決めてしまうと、大変な悲劇を受けます。1930年代にイタリアでファシスト党が政権を取り、ドイツでナチスが政権に就いたのも、その時代を生きていた人の気持ちが高揚し、死者が築いてきたルールを破壊していったからでした。
ナチス政権は勝手に誕生したのではなく、当時の「民意」の支持を受けました。
多数派の支持があってもやってはいけないこと
安倍内閣は「自分たちは選挙で選ばれた」「民意の支持がある」という姿勢で政治をします。
しかしながら、たとえ「多数派が支持していること」でも「やってはいけないこと」があると考えるのが立憲主義であり、政治的リーダーの本質的な務めではないでしょうか。
検察官の定年延長に対する政権の動きを見ていても、あるいは、学校の一斉休校の要請を見ていても、安倍首相はルールに沿って物事を決断していません。
死者の声に耳を傾けず、「自分たちの都合」だけで政治をしているからです。
安倍首相は「戦後民主主義のあだ花」
ただ、これは安倍首相だけの問題というより、戦後の日本の姿そのものでもあります。
戦後社会では、たとえば日米安保や衆議院の解散をめぐる議論について、最高裁は「高度に政治的な問題だ」として判断を避ける「統治行為論」をとってきました。
最高裁が過去の叡智を参照してブレーキ役とならず、「時の政治」によって国家にとって大切な判断がおこなわれきてました。
生きている人間の民主的判断を至上の価値とするのが戦後の特徴なのだとしたら、安倍首相は戦後民主主義のあだ花とも言えるかもしれません。
死者が積み上げてきた慣習を守らない。立憲主義を重んじない。こうしたリーダーに国の舵取りを託して良いのかどうか。真剣に考えるべきときが来ているように思えます。
そうしたことに民衆も気づいているのか、検察庁法案の改正に関する議論は、ツイッターがきっかけにもなり、政治が動きました。
これから新型コロナの対策を振り返ったり、あるいは感染の第2波が来たりしたときに、改めて安倍政権の是非が問われます。
ただ、ツイッターデモは、効果がありましたが、問題は持続性です。家族でけんかをしても次の日にケロっと忘れてしまうことがあるように、「怒り」は持続しません。検察庁法案も、いずれ別の国会で法案を通そうという動きも出てくるはずです。
政治がやってはいけないことをやったとき、死者の声を無視していると思ったときは、怒りだけではなく、「おかしいではないか」と言いづけること、「憤る」ことが大切なのです。