今回は「あおり運転した側」のドラレコの記録が逮捕・起訴の決め手となった(写真はイメージです)
オートバイの大学生にあおり運転をした末に乗用車を接触させ死亡させたとして、大阪の男が殺人罪で起訴された。あおり運転で殺人罪が適用されるのは「極めて異例」と報道されているが、まず間違いなく「初のケース」だろう。実は、これまでもあおり運転が原因で相手を死に至らしめたケースは枚挙にいとまがない。では、なぜ今回、殺人罪が適用されたのだろうか。事件の背景を探った。(事件ジャーナリスト 戸田一法)
殺人罪の立証には高い壁
そもそも「殺人罪」とは何か。事件を検証する前提として、殺人罪の定義を確認しておきたい。
刑法では、明確な殺意を持って相手の生命を奪うこととされている。殺害方法は射殺でも、刺殺でも、絞殺でも、毒殺でも、焼殺でも、もちろん乗用車でひき殺すのでも構わない。方法は問わず、捜査当局は「殺す」意思があったと立証しなければならない。殺意がなく偶発的に死んだのであれば傷害致死罪、過失で死なせてしまった場合は過失致死罪(もしくは業務上過失致死罪、重過失致死罪)になる。
よく報道等で、警察が殺人容疑で逮捕した容疑者の処分で、検察が「殺意の立証は困難と判断した」と殺人罪適用見送りの理由を発表したニュースを見て、一般の方々が「なぜ?人を殺したという事実は同じでは?」と腑(ふ)に落ちないケースがあると思う。これは、容疑者が「殺すつもりはなかった」と殺意を否認し、警察と検察が殺意を立証できなかったためだ。
「殺すつもりはなかった」と主張する容疑者の供述がうそだったとしても、目に見えない人間の意思を具体的に証明するのは、非常に難しい。だから、捜査当局は証拠を積み重ね、相手が死ぬと認識していた「確定的故意」か、少なくとも死んでも構わないという「未必の故意」を立証しなくてはならない。
今でこそ科学的捜査の発達でさまざまな証拠の組み立てが可能になったが、以前は供述頼みという時代で、自供は「証拠の王」とされていた。そのため、無理に自供を迫るなど冤罪を生む原因にもなった。今でも自供は重視されるが、物的証拠を補完する位置付けでしかない。
平たく言えば、裁判所の判事に「殺意を否認しているけど、さすがに死ぬって分かっていた」と認識させる必要がある。罪を軽くしようとしたり、言い逃れのために否認したりするケースも多いので、頻繁にあるわけではないが、殺人罪で起訴された被告が判決で「殺意の立証が不十分」として裁判所が殺人罪の認定を避け、傷害致死罪にとどめることは稀(まれ)にあるのだ。
捜査1課ではなく交通捜査課
今回の事件は報道各社が伝えた起訴内容によれば、大阪府堺市南区の警備員、中村精寛被告(40)は7月2日午後7時半ごろ、堺市南区の府道で、大学4年の男性=当時(22)=のバイクに追い抜かれたことに立腹。衝突すれば死亡させると認識しながらバイクに追突し、頭蓋骨骨折と脳挫傷で男性を死亡させたというものだ。逮捕時は「殺害しようと思ったわけではない」と容疑を否認していたが、大阪地検堺支部は起訴内容について認否を明らかにしていないとされる。
事故を巡っては、中村被告はバイクに追い抜かれた直後に急加速し、約1キロにわたりクラクションを鳴らしたり、パッシングしたりするあおり運転を継続。追突した後は「はい、終わり」と、満足したような音声がドライブレコーダーに残っていた。追突時の速度は時速100キロ前後で、基準値以下ながら呼気からアルコールが検出されたという。
今回、事件のポイントは2つある。
1つは、大阪府警交通捜査課が7月2日、中村被告を自動車運転処罰法違反(過失傷害)容疑で現行犯逮捕したものの、翌3日に容疑を殺人と道路交通法違反(ひき逃げ)に切り替えて再逮捕に踏み切ったことだ。
殺人罪と言えば、一般の方々は捜査1課をイメージするだろう。前述の通り、殺人罪で容疑者が否認している場合、明確な殺意の立証が必要だ。だから、捜査1課は否認する場合に備え、容疑者を特定してもすぐ逮捕することはなく、証拠を隠滅されないよう、また気付かれないように24時間態勢で行動を確認。証拠がそろった段階で逮捕状を請求・執行するのが常道だ。
しかし今回、捜査したのは交通捜査課で、事故の翌日に殺人罪を適用したというのが、警察担当記者らを驚かせた。
交通捜査課は本来はひき逃げなどを担当するセクションで、事故の状況や原因を調べ、運転者が逃げている場合は車を特定するのがメインの仕事だ。交通事故を捜査する過程で、鑑識課が「事故にしてはおかしい」と気づいたり、不自然な保険金が掛けられていたりして、事故ではなく「車を凶器に使った殺人だった」などと判明したケースは散見されるが、あおり運転の末の殺害行為だったと判断した例は出てこない(未遂はある)。
ドライブレコーダーが決め手
もう1つは、ドラレコが逮捕・起訴の決め手となったことだ。
一般的なドライバーであればドラレコは事故に巻き込まれた場合、相手が自分に有利なようにうその証言をしたときに備え、証拠として残しておこうという意味で装着している方がほとんどだろう。しかし今回の事件では、そのドラレコに自分の悪質な運転や発言が証拠としてキッチリ記録されていた。このドラレコに残っていた発言は「しまった。やっちまった」ではなく、明確な「やってやったぜ」というイントネーションだったと推測される。
しかし、これだけ注目されるべき事件なのに、続報がほとんど出てきていない。中村被告は起訴内容を否認しているとみられ、当然、弁護人もその意向に沿った主張をするはずだ。だから検察側は公判維持のため「犯人しか知り得ない事実」などを公表せずにおきたい意向があるのだろう。初公判での「隠し球」が注目される。
ではなぜ、前例がなく難しいとされる事件の場合、高いハードルは避ける傾向にある捜査当局が、殺人罪適用に踏み切ったのか。
疑り深い見方だが、社会にアピールできる事件であり、手柄にしたいという思惑はあっただろう。同時に、これまでは交通事故は罰則が低かったが、飲酒やあおり運転など悪質なケースは事故ではなく事件として扱い、より厳罰を科すべきだという風潮が生まれたことだ。
あおり運転を巡っては昨年6月、神奈川県大井町の東名高速道路で石橋和歩被告(26)=自動車運転処罰法違反(危険運転致死傷)の罪で起訴=がサービスエリアで駐車方法を注意されたことに腹を立て、ワゴン車を追尾。進路をふさいで追い越し車線に停車させ、そこにトラックが追突。ワゴン車の夫婦が死亡、娘2人が負傷した事件がある。
この事件などを受け警察庁は今年1月、あおり運転など危険で悪質な運転を抑止するため、全国の警察に厳正な捜査の徹底と積極的な行政処分を求める通達を出した。実は石橋被告が起訴された危険運転致死傷罪も、1999年に東名高速で飲酒運転のトラックに追突され、女児2人が死亡した事件を受けて2001年に新設された法律だ。
やむにやまれぬ事故でももちろんあってはならないが、いまや悪質で危険な運転をする者は積極的に断罪・処罰せよというのが社会の意思なのだ。
感情を制御できない幼稚性
そもそも、なぜこうした悪質で危険なあおり運転をするのか。
筆者がかつて地方で警察担当記者をしていたとき、長く交通事故捜査を担当した警察幹部(現在は引退)にじっくりと話を聞く機会があった。あおり運転の場合、というより、当時は「なぜ、ハンドルを握ると人格が変わる人がいるのか」と尋ねた記憶がある。その元警察幹部は面白い分析をしていた。
人によっては、自分の体より何倍も大きな車を動かし、人間の身体能力を遥かに超える速度で走行できることに興奮してしまう、いわゆる「アドレナリンが出た状態」になる。だから普段から攻撃性の強い人物はさらに攻撃性が強くなり、普段は物静かな人物が打って変わって攻撃性を出すようになるのだという。
普段と変わらない人はもちろんいるが、そういえば逆に温厚になるというケースは聞いたことがない。しかし、それも若いときで、加齢とともに運転にも慣れ、落ち着くことが多いと言っていた。
元警察幹部は交通機動隊の経験も長く、暴走族の取り締まりも担当したが、若い頃にヤンチャだった彼らが加齢とともに落ち着く傾向があるのも同じという。やはり人間の身体能力を超える速度が出る車やバイクに乗ることで気が大きくなり、攻撃性が増すらしい。ハンドルを握ると人格が変わる人も、暴走族も、いずれも自分の感情をコントロールできない幼稚で気の小さい人という共通点があるそうだ。
いずれも経験による傾向を語ってもらっただけで、精神科医や心理学者ではないから本当のところは分からない。ただ、筆者は若い頃、時間が空いているときは勉強のためなるべく裁判を傍聴するよう心掛けており、交通事故の裁判も多く傍聴した。あおり運転で事故を起こした被告が、いずれも気の弱そうなおとなしいタイプだった記憶があるから、そういう傾向はあるのかもしれない。
ともあれ、飲酒やあおり運転など、自分をコントロールできない人物が運転する車は文明の利器ではなく、もはや走る凶器でしかない。そんな凶器による犠牲者・遺族にとっては通り魔に殺されたのも同然で、「単なる事故」で納得できるはずもない。
警察庁の通達の通り、善良な一般市民を守るため、悪質で危険なドライバーを根絶してほしいとの願いは、犠牲者や遺族だけではなく、世の中すべてに共通するはずだ。かつて多くの裁判を傍聴し、遺族の慟哭に触れてきた立場としては、悪質ドライバーは徹底的に駆逐してほしいと切に願う。
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