パリの北東10キロの所に、ドランシーという町がある。エッフェル塔や凱旋門、ルーブル博物館とは違い、観光客が訪れることはほとんどない。
ここに、U字型をした5階建ての団地がある。壁を白く塗られた、殺風景な建物である。ナチス・ドイツはフランスを占領した1940年から4年間にわたり、ユダヤ人など約6万5000人をこの建物に一時的に拘束した。当時この建物は、鉄条網のある柵で外界から遮断され、監視塔も建てられていた。
ドランシーに収容されたユダヤ人の大半は、アウシュビッツなどの強制収容所へ送られ、ガス室で殺害された。生還したのは、その内の約2%、つまり1467人にすぎない。ナチスがドランシーを収容所に選んだ理由は、近くに貨物列車の駅があったこと。ユダヤ人たちは、ブルジェー駅などから家畜輸送用の窓のない貨車に詰め込まれて、アウシュビッツへ送られた。現在、ドランシーの建物は団地として使われているが、中庭にはユダヤ人の移送に使われた古い貨車と慰霊碑がある。
パリの中心部からドランシーへ行くには、電車とバスで1時間近くかかる。パリの中心部とは異なり、観光客の姿はほとんどない。ここを訪れるのは家族を殺されたユダヤ人くらいである。
フランス政府は、戦後「ナチスに協力したフランス人は、一部の犯罪的な市民だけであり、大半のフランス人はナチスに抵抗して勇敢に戦った」と主張。「フランスには、ユダヤ人が受けた被害について責任はない」という姿勢を貫いてきた。フランスではどんなに小さな町へ行っても、抵抗派(レジスタンス)を称える記念碑や博物館がある。
しかし戦争中にドランシー収容所でユダヤ人たちを監視していたのは、ドイツ兵ではなくフランス人の警察官だった。つまりフランス人の中には、ナチスのユダヤ人虐殺に協力した者は、一部の犯罪的な市民だけではなった。
1995年に、フランス政府は歴史認識を大きく転換する。当時大統領だったジャック・シラク氏は「ナチスに占領されていた時、フランス政府はナチスの非人道的な政策に加担した」と述べ、初めて責任を認めた。
つまりシラクは、ナチスに協力したフランス人が「一部の犯罪的な市民」に限られていたわけではなかったことを、公式に認めた。彼は、フランス政府が戦後50年間にわたって維持してきた建前を覆したのだ。
シラクは、欧州統合が進む中で、歴史的な事実を糊塗し続けることは、長期的に好ましくないと判断したのだ。
隣国ドイツが、ナチス時代の犯罪と対決し続けていることも、フランス政府の態度に影響を与えたのかもしれない。
2005年には、ドランシーの慰霊碑の近くに収容所に関する資料館も開かれた。ここでは収容所の歴史や殺害されたユダヤ人の運命について、写真や文書、ビデオ映像によって学ぶことができる。
フランスの例は、歴史認識の転換にしばしば半世紀もの時間が必要であることを示している。
保険毎日新聞連載コラムに加筆の上転載
(文と写真・ミュンヘン在住 熊谷 徹)
筆者ホームページ: http://www.tkumagai.de