「働く女はオス」は、なぜダメなのか

物議をかもしている『Domani』の広告。「働く女は、結局、中身、オスである」という言葉は何が問題なのか。
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これは女性誌「Domani」の広告です。雑誌のキャッチコピーは「ニッポンのワーママはかっこいい!」。編集部は「母親イメージ」につきもののステレオタイプに対抗を試みたようで、この広告の中で「ママに見えない」は誉め言葉と位置付けられています。

私自身も2人子どもがいて「ママ」と呼ばれるのが結構好きですし「〇〇ちゃんのママ」も「✕✕のかあちゃん」もウェルカムです。

そんなわけで広告の趣旨に共感しませんが、この雑誌の想定読者は自分とは違うタイプの母親だと思ったので、取り立てて反感も覚えませんでした。見た感じ、読者対象は自分より10歳以上若いですし、生活臭のようなものを避けたがる選好も、自分とは違います。

自分とは違いますが、こういう方向性の「ママ」を小学校の授業参観で見かけることもありますから、多様性を重視するなら「ママと呼ばれたくない」人がいていいはずです。

ただし、既に記事にもなっているように、この広告で問題とされたのは、メインのキャッチコピーではなく、サブにあたる「働く女は、結局、中身、オスである」という部分です。この短文の何がどう問題なのか、考えてみます。

まず、ここに書かれていることは、事実に反するのでしょうか?


私自身、初職は経済系の出版社で、男性が多い職場でした。朝から晩まで、時に深夜や明け方まで働いて毎晩のように飲みに行く生活で、20代の頃は完全に「男性以上に男性的」でした。よく、総合職・専門職の女性が冗談交じりに「彼氏でなく妻が欲しい」と言ったりしますが、これは、恋愛より仕事を優先し、身の回りの世話を「してあげる」のではなく「してもらいたい」、男性化した自分の状況を皮肉る言葉です。

その意味で「働く女はオス(みたいになっている)」という文章が、全く事実に反するわけではありません。

問題は「事実や、けっこうよくあることを、いかに解釈するか」にかかっています。

なぜ、働く女性が男性化するのでしょうか。それは、男性社会に過剰適応し、男性以上に「男性的に」働かないと認められない。そんな環境要因が大きいです。

そして、このような状況を当事者が語るのと、第三者が語るのでは意味合いが違ってきます。当事者が「私、中身、男なんだよね」と語ってもOKなのは、主語は自分に限定しており、個人の主観を語ってるだけだからです。 

一方で第三者が同じことを言うと、問題になります。例えば長時間労働している女性に向かって「君、中身、男だよね」と言ったら、そこには、他人を勝手に枠にはめる「決めつけ」のニュアンスが生じて、言われた方は不快になるでしょう。


昨今では「長時間に働けないと二級労働者扱いされること」自体が問題視されるようになりました。家事や育児や介護を担っていると、女性だけでなく男性だって「男性的に働く」ことはできません。

つまり、女性誌の発行者が「働く女は、結局中身、オスである」と述べることは「オス化して働いていない、働けない多くの人」を排除しているように受け止められるのです。 


私が尊敬するある企業広報の方は、この構造を「誰が言うか問題」と短く的確に表現します。働く女性自身が自虐をこめて言うのはOKでも、第三者、しかも大手出版社が働く女性を決まった枠に当てはめるような物言いは反発されるのです。 

多くの人は「勝手な決めつけ」に反感を持ちやすく、そこでは「誰が言うか」が重要というわけです。

 

この記事は、はてなブログ「rengejibuの日記」に掲載されたものを一部編集したものです。