善意の気持ちよさの落とし穴についての映画「ポバティー・インク あなたの寄付の不都合な真実」

「気の毒な人々を何とかしなければ」という善意はその人自身にとっては心地いいものだ。それに無自覚になると、貧しい人には貧しくいてほしいと願うようになるだろう。
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善意の落とし穴についての映画

誰かの役に立ちたい、人のために何かしたいという気持ちは「基本的に」素晴らしいものだ。善意は大抵の人間がもっている。大きな災害などがあった時には実感することだが、以外と人は助け合うものだ。

それに誰かに感謝されたり、尊敬されたりすることはとても気分のいいものだ。そういうものに命をかける人もいる。スティーブン・スピルバーグの映画「宇宙戦争」にこんなシーンがある。

ここで田中さんが「怖い」と形容している点が面白い。他者のために何かしたいという善意が怖いという。善意だけが先走りすぎて命が無駄に浪費されることが怖いから、あるいはその善意が他のだれかを追い詰めることがあるかもしれないからか。

いろいろな視点があるだろうが、たしかに善意はただ素晴らしいだけのものではない。事例を挙げればキリがないが例えば福島出身の開沼博氏は、以前こんな指摘をしている。

何となくの当てずっぽうな支援を押し付けるだけでは、現にそこに生きている人たちのニーズを満たせないし、むしろありがた迷惑になってしまう可能性がある。

外で遊べないらしい子供たちのために毎年幼稚園に積み木を贈るとか、もちろん善意だろうけど、子供を外で遊ばせられるよう、どれだけ地元が努力してきたか。そこからどれだけ時間が経過したか、何も理解しようとしていない。理解する努力をはしょって、善意だけを押し付け、悦に入ろうとするのは、単なる自己愛に見える。

福島への「善意の押し付け」は、ただの自己愛 | ブックス・レビュー | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

他にも毎年広島には大量の折り鶴が送られてくるが、そのほとんどが環境問題となるゴミになっており、年間1億円かけて焼却処分されている事実もある。(おりづる再生プロジェクト 広島より)

善意にはこうした落とし穴がある。ドキュメンタリー映画「ポバティー・インク  あなたの寄付の不都合な真実」はそんな善意の落とし穴を「寄付」という行為から考えさせる作品だ。

寄付は、善意が発露しやすい最も身近な例のひとつだろう。おそらく多くの現代人が寄付をなんらかの形でしたことがあるだろう。それが純粋に善意の気持ちからであることがほとんどだろう。しかし、実際にその寄付が他者の助けになったかどうかは、案外と我々は知らない。

本作はそんなグローバル社会における寄付の仕組みを詳細に解説するものだ。本作を見ると本当に他者の助けとなるには、考える力が必要なのだということがよくわかる。

米の大量援助により地元の農家が廃業

映画は、ハイチを主にクローズアップしている。ハイチといえば2010年に大地震に襲われ多くの被害を出した国だ。人口の約3分の1の300万人が被災したと言われており、世界中からたくさんの支援が寄せられた。

地震の被害により自給力を一時的に欠いた状況ではその寄付はとてもありがたいものだったが、地震から3年たってもアメリカから毎年大量の米が届き続けているそうだ。無料の米が大量に市場に出回るため、地元の米が売れなくなり、米の大量援助は結果として多くの農家の職を奪うことになってしまった。

同様の事例としてハイチの太陽光パネル開発のベンチャー企業も、「電力不足を救う」と称して無料で大量に外国から送られてくる太陽光パネルを前に事業継続の危機を迎えた。本作はこうした、実態を知らない善意のみの寄付がいかに当事者にとってありがた迷惑であるかを、多くの実例を用いて明らかにする。

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本作では、善意が貧困を助長する原因となっており、そうなってしまう背景に貧困産業があると指摘する。ネタバレにならないように公式サイトから引用する。

営利目的の途上国開発業者や巨大なNGOなどにより、数十億ドルにも及ぶ「貧困産業」が生まれ、そのなかで先進国は途上国開発の指導者として地位を獲得してきた。慈善活動のビジネス化が歴史上これほどまでに発展を遂げたことはない。

しかし、「気の毒な人々を何とかしなければ」「彼らは無力で何もできない」といったイメージを先進国側の人々に植え付けるプロモーションや、一方的な押し付けで受け手側の自活力を損なうような援助のやり方に、反対の声をあげる途上国側のリーダーは増えている。

たとえば、アンジェリーナ・ジョリーやU2のボノが発するメッセージもまた、途上国の人々のイメージの固定化を助長してしまっているとも本作は指摘する。それが純粋に善意からくる行動であることは疑いはないのだが。

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キーワードは自助努力の支援と考える寄付の実践

今日のグローバルな寄付が、支援を必要としている国や地域の自給力を奪い、むしろ貧困を温存することになっていしまっている皮肉な状況を変えるべきだと本作は伝えるわけだが、具体的にはどうするべきなのか。

ひとつは自助努力を潰さないようにそれを支援していく方法だろう。本作を見て「未来を写した子どもたち」というドキュメンタリー映画を思い出した。

Kids with CamerasというイギリスのNGOのプラグラムがインドのカルカッタの売春宿で生まれた子供たちにカメラの使い方を教えるドキュメンタリーなのだが、このNGOはたんに貧しい子供にカメラを与えるだけでなく、その撮り方を教育し、子どもたちの目線で売春宿の日常を撮影してもらい、欧米で写真展を開催し、その利益を子どもたち自身に還元するという方法を採用していた。ようするに学ぶことの面白さを教え、子どもたち自身の努力でよりよい未来を作らせようという試みだ。支援にはこういう視点が必要なのではないか。

「気の毒な人々を何とかしなければ」という善意はその人自身にとってはとても心地いいものだ。その心地よさに無自覚になると、貧しい人にはずっと貧しくいてほしいと願うようになるだろう。

貧困産業を支えているのは、そうした「善意の落とし穴」なのだ。その落とし穴にはまらないためにはわずかな額の寄付ひとつとっても常に立ち止まって考えることが重要だ。そして自分の善意がだれかを苦しめているとわかったら、柔軟に軌道修正する度量を持つことも重要だろう。言い換えると、善意を否定されてもムキになって他者を攻撃するような人間にならないことだ。