夏が終わり、新学期が始まった。特にこの時期に限ったことではないが、小学生から大学生まで、そして大人も、しんどさや生きづらさを感じてしまうときがある。逃げ出したいときがある。逃げてもいいよ、とも言われる。でもどこに逃げればいい?
そんな時、「自分に逃げる」という考え方が、心をラクにしてくれる。
私たちは居場所や一緒に過ごす人によって、たくさんの「キャラ」を使い分けている。その中で一つでもお気に入りの「自分」があれば、そこに向かって逃げてみよう。それだけで、救われるーー。
自分を全て愛そうとするのではなく、どれか一つでも「好きな自分」を見つければいい。小説家の平野啓一郎さんが唱えている考えだ。「分人主義」という。
平野さんは「分人主義」という考えをここ数年、口にしている。「分人」というのは、「個人」をさらに細かく分解したイメージだ。Twitterのアカウントをたくさん持っている人がいるように、状況や場所によってキャラクターを変えながら生きる「多種多様な自分」がいるという考え方だ。
例えば、地元の友達といる時の自分は少しワガママで「自由奔放な性格」。だけど、学校のクラスにいるときは地味で静かな「暗い人」。家族の前では自分を押し殺す「優等生」。たくさんの自分が、場所や一緒にいる人によって、それぞれ現れてくることを平野さんは肯定する。
「僕だって色々なキャラを持ってますよ。嫌なことがたくさんあっても、好きな自分がひとつでもあれば人生がまったく違ってきます」
平野さんは、自治体の自殺対策会議などにアドバイザーとして招かれるたび、「分人」という考えをもとに「居場所づくり」を進めてほしい、と提案し続けているという。
学校でもいじめられて、家庭環境も荒れていて、居場所がない状況になってしまっている子どもたちもいる。「その子たちが苦しいのは、自分の中に自分の好きな分人が一つもないから。サポートする大人たちは、子どもたちに安心できる『居場所』を提供しようという時に、彼らがひとつでも好きな『分人』を持てる環境づくりを目指すべきだと思うんです」
逆に「しんどい思いをしている自分」もたくさんの「自分」の中の一つだと考えれば、ある程度の割り切りもできるのではないか。自分を複数に分解することでラクになる、ということだ。
日本人は「褒めない」
平野さんが初めて「分人」という概念を世に出したのは、2009年のこと。2008年にはリーマンショック、2011年には東日本大震災が起こり、日本人の人生観が大きく転換しようとしていた時だった。
「個人」という概念は、政治や経済の仕組みを考えるうえでは便利だが、一人一人が日常を生き抜くために、ある意味、単位として「大きすぎる」考えでもある。何か悪いことがあれば自分のすべてを嫌いになることにつながりかねないからだ。
平野さんが自らの考えを『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社新書)でまとめたところ、反響は大きかった。「ラクになった」「救われた」など読者からの声が届き続けている。
「日本人は、自己否定しやすい。敢えて単純化していいますが、日本は褒めない文化、自慢しない美徳がありますよね」
「平成の30年に及ぶ経済不況、終身雇用の崩壊、広がる格差や分断…。日本全体が自信を失っています。ロスジェネと呼ばれる僕たちの世代は特に象徴的ですが、人生がある程度うまくいっている人でさえも、世代内の格差のために、その成功を評価されにくい状況があります。人々が自己肯定感を相当持ちにくくなっているように感じます」
誰にも褒められないのならせめて、たくさんの自分の中の、たった一つの自分を選んで好きになればいい。そういう考え方の転換が自分を救うのではないか。
ネットの登場、SNSの隆盛。「分人」は海外でも?
ところで分人という考えは海外でも通用するのか。
例えばアメリカ。イギリスから独立して新大陸でゼロから国家をつくり、開拓者精神あふれる人たちが住んでいる。「個人」の概念が非常に強く根付いている国といえる。ただ、それも揺らいでいるのがいまだ、と平野さんは考える。
トランプ大統領支持者が多いと言われている中西部で、いわば「没落した中間層」とも呼ぶべき人たちが、「生きがい」や「居場所」をなくして絶望し、アルコールや薬物に依存したりするケースがある。
そういえば2000年代以降、アメリカで「孤独なボウリング」という本が話題になった。アメリカ社会で様々な階層や人種をむすびつけてきた「地域のボウリングクラブ」のような社会的なコミュニティが弱体化し、人と人のつながりの度合いが薄れて社会問題となっていることを指摘したものだ。アメリカの「強い個人」も実は、地域の中での結びつきに支えられていた面があるのかもしれない。
アメリカでも、日本でも、「個人」の概念で全てを説明することには限界が見える。ならば、人間は、個人という唯一無二で分解できないもの(in―dividual)ではなく、自分が好きなように分けられるもの(dividual)と考えたらいいのではないか。
「対人関係毎、コミュニティ毎の自分という発想は、ネットの登場以来、(国を問わず)かなり自然に受け容れられていると思います。友達同士で楽しんでいたSNSのアカウントを、仕事の関係者に覗かれると、居心地が悪くなる、といった具合に。コミュニケーションを通じて、自分が嫌になったときに、それはあくまで幾つかある分人の一つなのだと相対化して見る視点は、大切でしょう」(平野さん)
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「不登校」や「出社拒否」。この季節には、誰もがそうなる可能性がある。それらは「自分が選び取った選択肢」なんていうカッコイイものではないし、たとえ学校や職場から逃げ出しても、色々なものが追いかけてくる。
そんなとき、一人でも好きな自分の分人がいれば大丈夫と思っていいのではないか。
無責任なことは決していえないけれど、この記事を読んだ方が少しでもそう思ってくれたら…、と真剣に考えている。
<平野啓一郎さんが提唱する「分人主義」>
「分人=dividual」とは、人間を見る際の「個人=individual」よりも一回り小さな単位のこと。
人は一緒にいる相手次第、場所次第で多種多様な自分を生きている。このように、状況によって変化する自分を平野さんは「分人」と名づけ、「一人の人間は、複数の分人のネットワーク」であり、「その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される」と唱える。 分人という単位で人間を考える思想を「分人主義」とし、人類の未来を問うSF小説『ドーン』(2009年)、新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(2012年)などの著書や講演会などを通じて読者に伝えている。
また、最新の著書『「カッコいい」とは何か』(2019年)では 「『カッコいい』について考えることは、自らの『生き方』を考えること」であり、その際にも分人主義的なアプローチが望ましいと論じている。