国交は思いがけないきっかけから始まる――世界の片隅からの独り言

3月中旬に4回目のジブチ派遣を無事に終え、本拠地のニューヨークへ戻りましたが、すぐに帰国。慣れない日本語での年度末報告書作成や精算などの作業は、過酷なジブチでの生活よりも、私にとっては大変だったかもしれません。
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3月中旬に4回目のジブチ派遣を無事に終え、本拠地のニューヨークへ戻りましたが、すぐに帰国。慣れない日本語での年度末報告書作成や精算などの作業は、過酷なジブチでの生活よりも、私にとっては大変だったかもしれません。

ジブチ?

前回お話したように、私は現在JICA(独立行政邦人国際協力機構)のプロジェクトで、ジブチというアフリカ大陸北部、紅海の入り口に位置する国で国際支援活動をしています。

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帰国中、幸い桜の開花時期にあたり、何年ぶりかに美しい日本の春を堪能することができました。30年以上も外国生活を続けていると、満開に咲く様々な種類の桜、そして風にひらひらと舞う華麗な花びらが恋しくなります。セントラルパークやブルックリン植物園など、ニューヨークの桜も見事ですが、やはり情緒がちがいます。また、桜舞散る花吹雪の中を歩いて通った小学校時代、子供心に花のはかなげな短い命のことを考えた思い出などがあるので、日本の桜が懐かしくなるのだと思います。

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日本の国花とも言える桜、実は100年以上も前に、日本とアメリカの友好関係を保つための大きな役割を果たしました。1912年、当時の東京市からワシントンDCへ寄贈された3000本以上の桜が、ニューヨークにも贈られ、盛大な歓迎植樹式が行われたそうです。桜が国と国の仲を取り持つ...何だかロマンが感じられます。

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つい先日、アメリカのオバマ大統領が訪日し、安倍総理大臣との間で日米首脳会談が行われましたが、国家レベルでの国交も、両国間の関係を深めるためには重要です。歴史を振り返っても、正式に「使者」を送り、国交を成立、また関係を深めて来た国々も多いことでしょう。しかし、桜のように、ちょっとしたきっかけから両国関係が親密になることも少なくありません。

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隣国とはなるべくよい関係であることが理想ですから、国交にも力が入りますが、特に国の利益にならないような遠い国との関係は、何かきっかけがないと始まりません。ジブチに初めて派遣された時、私が開発援助活動を行っている国営テレビ放送局のシニアスタッフから、日本とジブチの国交が思いがけないきっかけで、始まったことを知りました。

ジブチは1977年にフランスから独立して共和国となった際に日本も承認し、1978年8月には当時のカミル首相(M. ABDALLAH MOHAMED KAMIL)を外務省来賓として迎えて外交関係が設立されました。また1989年4月には、在京ジブチ大使館が設立されましたが、国同士の外交交流も、また民間交流も、さほど親密なものではなかったようです。

しかし、1986年にジブチの隣国、アラビア半島に位置する南イエメンでの内乱が悪化した時、脱出した在留邦人38名をジブチが受け入れ、保護したことが契機となり、両国の関係は緊密化しました。1990年に北イエメン、南イエメンが合併してイエメン共和国になった4年後、1994年に旧南側勢力が再独立を求め、再びイエメン内戦が勃発しました。その時も在留邦人と法人旅行者の75名が緊急脱出してジブチへ逃れ、無事に帰国しました。

この話をしてくれたシニアスタッフのYさんは大変な親日家で、電話をかけるといつも「モシモシ、ゲンキデスカ?」と日本語で挨拶してくれます。国営放送局に30年ほど勤務するベテランで、1986年に南イエメンの内乱から脱出して来た邦人たちの取材にかけつけた、NHKの記者やカメラマンのクルーに協力をしたそうです。日本でのニュース番組にいち早く間に合わせるために、撮影した素材を衛星で電送することも、国営放送局からできるように手配し、全面的な協力を惜しまなかったおかげで、NHKと良好な関係が確立し、発展したと言います。

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1994年以前も、日本政府は食糧援助などの支援を行ってきましたが、関係が緊密化してからは、日本の社会経済発展の支援は急速に増えていきました。邦人保護のお礼として、1995年には中学校を建設、その他ジブチ市内の主要道路整備、青年海外協力隊の派遣、 湾岸施設整備計画としてジブチ港に小型海難救助船、パイロット船、オイル防除船5隻を供与、ジブチ市都市給水計画として、ジブチ市に供給されている水資源の水質改善を目指し、約10の新規井戸を掘削するとともに、13の既存井戸の修復、関連機材の提供など、2011年までの総計として、約272.28億円の無償資金協力と、約36.74億円の技術協力が実施されてきました。

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ジブチ政府の人道的な支援が、これだけ多大な支援を日本から得ることにつながったのです。国と国の関係も、人と人との関係も、人間同士の触れ合いがきっかけとなって深まっていく...人間社会のあるべき姿を見たように感じました。

ジブチも援助されるばかりではなく、日本への協力を惜しみません。外務省の情報によると、阪神・淡路大震災が発生した時、 ジブチの初代ハッサン・グレード・アプティドン大統領は、自費で日赤や兵庫県に計1万ドルの義援金を供与したそうです。助け合いの精神が生きています。

また、2011年3月、東北地方大洋沖地震の発生を知ったジブチ政府は、3月23日を被災者に捧げる「日本国民との連帯の1日」としました。当日、ゲレ大統領、ディレイタ首相、主要官僚たちは、在ジブチ日本大使館を訪れたあと、市内の「東京広場」と名付けられたロータリーで盛大な式典を行ないました。

ゲレ大統領、主要閣僚、国会議長、議員、宗教関係者、在ジブチ大使館員、在ジブチ自衛隊部隊、JICA関係者、在留邦人など、800名が出席した式典では、ゲレ大統領が献花をし、被災者に対する哀悼の意と同情の念を表す演説を行いました。

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東北地方大洋沖地震の1周年にはユスフ外相が、「ジブチ政府の名において、貴国国民、貴国政府、及び犠牲者のご遺族並びに被災者の方に対し、我々の連帯の意を表するとともに、お悔やみ申し上げます。被災地の復興に向けたご尽力を応援、激励するとともに、貴国がこの試練から立ち上がられると確信しています。」とメッセージを送られたそうです。また在京ジブチ大経由で、福島県南相馬市に義捐金が寄付されたと聞きました。

さらに2011年6月には航空隊の拠点がジブチに設置されて、現在約500人の自衛隊員の方たちが任務に当たっています。私もプロジェクトの国営放送局における番組制作指導の一環として取材させて頂きましたが、水や燃料の調達だけでなく、暖かい声をかけてくれるなど、地元の方たちからの協力なしには、活動ができないと現地調査所長がおしゃっていたことが印象的でした。

2012年1月には在ジブチ大使館が開設され、特命全権大使として初めて派遣され、日・ジブチ二国間関係の発展に邁進中です。上記のジブチにおける支援に関しては、大使館から情報を頂きましたが、圧倒されるような援助プロジェクトの数に、正直言って驚きました。

私はこの分野はまったくの素人なので専門的な意見は言えず、「独り言」程度ですが、外交、国交には迷路のような複雑な事情、状況、関係があり、簡単にこうすればうまくいく、という秘訣はないのではないかと思います。情報、駆け引き、心理作戦など、どの国の政府も試行錯誤を重ね、メディアという強力な武器を使いつつ、様々な手で戦略を練り、いかに自分の国に利益をもたらせるかを考え、行動しているのでしょう。

反面、日本とジブチのように、人と人との触れ合い、人道支援から国交が発展することもあることを知ると、ほっとします。外交には様々な要素が絡んでいますし、時代によっても、国によっても状況がちがい、良好な国交関係を築き上げるのは容易なことではありませんが、国は国民がいて初めて成立するものですから、根本は人間関係ではないかということを、ジブチに来て増々感じています。私たち人間はひとりでは生きてゆけません。お互いに助け合い、認め合い、通じ合うことで、生きること、そして前進することができるのです。外交には複雑な事情があっても、最終的には「人と人とのつながり」が欠かせないのではないかと思います。

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私は5月5日、端午の節句にジブチに戻り、5回目の派遣期間もあっと言う間に半分過ぎようとしています。43日間の滞在は長いようで短く、こなさねばならない仕事は山ほどありますが、今回もまた新しい発見と良い出逢い、多くの困難があり、ローラーコースターに乗っているような刺激多い日々を送っています。