おとなにはむずかしいかもしれない

言葉が通じないこどもとのコミュニケーションはおとなにとってはむずかしい。
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先日、電車に乗って座席に座ると、向かいの席に2歳くらいの男の子が座っていた。男の子の隣には母親らしき女性が座っていて、なにやらカバンの中をがさごそと探している。

男の子は「アー!」と元気よく車両に響き渡る短くて大きな声を発し、女性が何かをカバンの中から出してくれるのを待っているように感じられた。二度目に男の子が「アー!」と叫んだ時、私は男の子にちらりと視線を投げかけた。

こどもにとって知らない成人男性と目が合うことは、なにかしら意味合いを持つ。たとえば怖い人か、あるいは優しい人かを判断する材料にもなる。大人同士であっても、知らない人と目が合えば、意味を汲み取ろうとするだろう。

私は初めて会うこどもと接する時には、最初できるだけ目を合わせずに、こどもが私を観察することができる時間を提供する。それから、ちらり、ちらりと目を合わせたりそらしたりする。

よい方法であるかどうかはわからないが、私にとっては、それが手っ取り早く仲良くなる方法だ。

しかし、先日電車の中で出会った男の子とは、目が合ってしまった。目が合って、男の子は「アー!」と言うのをやめてしまった。やがて、母親がカバンのなかから、おやつのはいったマグカップ容器を取り出し、男の子の関心は容器へと移っていった。

言葉の世界のそとがわに

ここで私が書きたいことは、電車の中で大きな声を出したこどもへの対応というような話ではない。ましてや公共機関において泣きわめくこどもに対する、おとなのあるべき対応という話ですらない。

2歳くらいのこどもは、身体的コミュニケーションをしているという事実だ。そしてまた、おとなとこどもの間には、言葉で伝えられないことの外側に、身体的なコミュニケーションが成立しているということだ。

ベビーサインを学んでいる人や、実践している方には、赤ちゃんと「しぐさ」を通じてコミュニケーションができるという方もいるだろう。もちろんそうした「共通言語」も、身体的コミュニケーションであると言える。

一方で、「共通ではない行為」についても私たちはちいさなこどもたちとやりとりしている。着ている服の色、におい、髪型、声のトーン、目線、握手した手のぬくもり。あるいは背を向け、関わろうとしない態度。

こどもにとって、感覚的に受け取った情報を判断に活用することや、行為に行為を返してもらうことは、言葉の世界よりも先に出会う世界との対話といえる。言葉のない対話を、対話と呼ぶことはふさわしくないとすれば、コミュニケーションと言い換えてもかまわない。

こどもはおとな、おとなはこども

今から75年前、モーリス・メルロ=ポンティは「行動の構造」の中で、意味があって行動が行われるのではなく、また、行動に意味が生じるのでもないと論じた。

私がまばたきをするとき、まばたきの意味を考えていないように、行動は意味に先立つ。

まばたきという行為ひとつをとっても、状況によってその意味を構成する要素はかわるので、一面的な意味によって行動をすべて説明できるわけではないのだ。

こどもに視線を投げかける時、私はただ視線を投げかける。

そこには母親とおぼしき女性の反応をもとめるこどもが、「アー!」と声をあげた行動があり、私がこどもに視線を投げたという行動がある。

私が視線を投げかけたことに含まれる意味は、こども自身による解釈によって定義され、またそのこどもが「アー!」と言わなくなってしまったことの意味も、私によって解釈されているに過ぎない。

行動と、行動の交わる瞬間、両者に共通するベビーサインのような「共通言語」は存在しないが、行動と行動の中で、たしかに両者は「言葉では説明できない何か」を交換していると言ってよいのではないだろうか。

成長するに従って、私たちは言葉に頼りコミュニケーションする。

言葉が得意なおとなは、なおさら言葉の獲得を重要視しうる。

コミュニケーションといえば、言葉の獲得だと思い込み、おとなの都合で幼児に言語を獲得させようとすることはないだろうか。

こどもの行動がおとなの行動を含む周囲の環境によって引き起こされているのであれば、こどもの行動や言葉は、私たち自身とも考えられる。

言葉よりも前に、行動によって世界と対話するこどもから、こどもをとりまく世界を読み取れるようになりたい。

言葉が通じないこどもとのコミュニケーションはおとなにとってはむずかしい。 厚生労働省の「こども虐待による死亡事例等の検証結果等について(第12次報告)」によれば、心中死をのぞいたこどもの虐待死は、0歳から2歳のこどもで実に75%をこえる。

モーリス・メルロ=ポンティに従えば、おとながこどもに言語を獲得させたいと願うこともまた、こどもの意思がおとなの行動となって現われているのかもしれない。あるいは、ロゴスの世界を無理に獲得させず、こどもの行動を楽しみたいという私の願いも、こどもの意思によるものなのかもしれない。