今年5月末、僕は心療内科で「適応障害抑うつ」と診断され、大好きだったはずの仕事から離れることになった。
僕は学生時代からアフリカで難民支援に携わったり、全国で講演活動をしたり、自分で本を出版したりと、働き詰めの生活を送ってきた。その様子は、100本以上ハフポストに寄稿してきた記事の中でも紹介させてもらっている。
しかし、人間関係で躓いたことや、十分に休養を取らず働いてきたことが原因になったのだろうか、ある日の仕事中にパニック症状になり、そのまま極度の抑うつ状態になった。仕事はおろか、日常生活すらままならない状態に置かれた。
「原くんは国際協力業界の若手ホープだね」周りからはそんな期待を受けながら、自分でも調子に乗ってバリバリ働いていた人間が、家の外に出ることすら怖くなってしまった。惨めさに押しつぶされそうになりながら、僕の闘病生活は始まった。
時には、目が覚めた瞬間から抑うつ状態が酷く、布団から起き上がることすらできなかった日もある。今でもあの、お腹の上に重たい鉛が乗っている感覚を思い出す。理由もなく涙が出てしまったり、掴みどころのない不安感に心を殺されそうになったりもした。
一時期は、「この病気に終わりなどあるのだろうか」とさえ思っていたこともあるが、休養に専念したおかげか、発症から6か月が経ち、今では日常生活を送る分にはほとんど問題なくなった。
そんな半年間にわたる僕の闘病生活には、パートナーの存在が何よりも欠かせなかった。
適応障害は、発症すると自分で自分の心をコントロールすることが難しくなってしまう病気だ。「悲しい」という感情に心が冒されてしまい、いい年した大人が、堪え切れずに涙を流したこともある。
そんなとき、彼女は僕と一緒に涙を流してくれた。僕が眠れないときは、横でずっと起きていてくれた。消えたいと泣き喚く僕のことを抱きしめ、いつまでも背中をさすってくれた。
情けない姿ばかり見せてきたというのに、全てを受け入れてくれた。半年間彼女の支えがなかったら、僕はもうこの世にいなかったかもしれない。適応障害になってから、もし一人で過ごしていたら。そう考えるだけで、ゾッとしてしまう。
そんな彼女も2年前、僕と全く同じ病気を経験している。
状況も症状も、話を聞く限りは僕よりずっと重度だったみたいだ。責任感がとても強い彼女は、仕事も責任も、何もかも一人で背負いこんでしまっていた。
人に頼むことができず、周りからお願いされると何でも引き受けてしまっていたようだ。良い意味での"いい加減さ"が彼女には足らなかった。
地方出身で当時は一人暮らしだったから、闘病生活の間、途方もない孤独感を味わっていたと思う。何週間も部屋のカーテンさえ開けられなかったと話していた。
今はほとんど完治したけれど、何回か死ぬことも考えていたらしい。「うつ病は、自分で自分を殺さない限りは絶対に死ぬことのない病気」と言われるが、苦しんでいる本人たちは、それでも「死」ということを想像してしまうことがある。
そんな彼女に昨晩、
「あなたを支えることで、私はこの病気を本当に終わらせられると思うの。だから、あなたに出会えて本当に良かったです。」
と言われた。その言葉を聞いて、僕は号泣してしまった。
適応障害という病気は、「甘え」と誤解されることもあるほど、社会にはさほど認知されていない。それゆえに、僕も、彼女も、心無い言葉を浴びせられたこともある。
でも、同じ病気を経験したからこそ、僕らはお互いを深く理解できた気がする。そして、いつしか同じ病気と闘っている人と出会ったときに、「今は何も気にすることなく、休んでいいんだよ。泣いてもいいんだよ。」そう、言葉をかけられるはずだ。
適応障害で休むことになった僕を支え続けてくれたパートナー。僕が泣いている時は一緒に涙を流し、僕が眠れない時はずっと横で起きててくれた。
情けない姿ばかり見せてきたのに、全てを受け入れて支えてくれた。半年間彼女の支えがなかったら、僕はもうこの世にいなかったかもしれない。
— 原貫太 / 世界を無視しない大人になるために (@kantahara) November 22, 2018
辛い時期を支えてくれた人、大切にしよう。ありがとう。
(2018年11月22日 「原貫太オフィシャルブログ」より転載)
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