リンク先のサイボウズ式さんから“「自立」をテーマに何か書きませんか?”とお誘いを受け、自立について書いていたら、依存についても書きたくなってしまいました。
なので、ここでは依存についてあることないこと書いてみます。
現代社会では、依存って、だいたい悪い意味で語られますよね。goo辞書さんで意味を確かめてみると、
【依存】
他に頼って存在、または生活すること。
goo辞書より引用
と書かれています。
ということは、この「他に頼って存在、または生活すること」が悪いって思われているわけで、「自立」が必ずといって良いほどポジティブな意味で語られるのも、つまりそういうことなんでしょう。
しかし、「依存」=「他に頼って生きているのは良くないこと」って言いますけどねぇ。
元来、人間は群れて生きる性質を持っていた生物ですから、「依存」という要素を除外して生きることは、本来、あり得ないことのはずです。冒頭リンク先にも書きましたが、そこから一歩進んで考えると、「自立」なんてものの実態は「上手な依存」に過ぎないのだと私は思っています。
ただ本当は、この「上手な依存」「下手な依存」って考え方も、ときどき嫌になるんですよ。
「ギブアンドテイクの成立した」「お互いにベッタリと頼り過ぎない」「共依存にならないような」依存が社会的に好ましいというのは頭ではわかっていますし、私自身も、なるべくは実行しているつもりです。精神科や心療内科では、悪い依存は対人であれ対物であれ目の敵にされがちですし、そういった「下手な依存」が社会適応の邪魔になるなら何とかしなければならないというニーズに、臨床場面では応じなければなりません。
でも、「上手な依存」ばかりで埋め尽くされた人間って、それもそれで不自然だなぁと思うんですよ。まして、社会全体が「上手な依存」をどんどん志向していって、「下手な依存」が片っ端から目の敵にされて治療の対象にまでされて、「上手な依存」の千年王国、言い換えれば「自立」の千年王国がだんだん立ち上がってくるさまが、なんだかおっかないと思うこともあるんです。
きっとこれは、私自身が「上手な依存」ばかりで構成された人間ではなく、「下手な依存」を多分に含んだ人間だからそう思うのでしょう。現代社会の空気に従い、私は「上手な依存」を志向するように心がけているけれども、あまちキチンとは目指していません。ときには「下手な依存」と呼ばれそうな気持ちを自覚することもあるし、そういう気持ちに、人間関係でご面倒をかけてしまった後になって気付くこともあります。
昭和演歌なんかには、「下手な依存」を地で行くような歌詞が混じっているじゃないですか。ああいう要素も含め、私は、自分自身が「上手な依存」だけで生きていける人間とはどうしても思えません。「下手な依存だってあるさ、人間だもの。」と言いたい自分が心のどこかにいるのです。
まあ、職業的にはそうも言っていられないわけですが、「自立」を成立させるような依存が「上手な依存」として奨励されて、そうではない「下手な依存」が忌み嫌われる風潮がこれ以上強まったら、窒息するのは自分自身のような気がします。このあたり、もっと上手く言語化したいところですが、まだ上手くまとまめられそうにないので、今日はこのへんでお開きにします。
(2016年10月28日「シロクマの屑籠」より転載)