自衛隊の南スーダン派遣施設隊の日報に関して、私には意見を言うちょっとした権利があると思う。

自衛隊の南スーダン派遣施設隊の日報に関して、私には意見を言うちょっとした権利があると思う。

ということで、一言。

一昨日からの南スーダンの日報に関する報道を見ていると、ちょっとピント外れなものが多い。

自衛隊の南スーダンの派遣施設隊の日報は、二月六日にはその存在が明らかになっており、機密部分が黒塗りになっているもののすべて公開されている。

繰り返すと、「二月六日には日報はすべて公開されている。」

だから二月十五日に、防衛省で開かれた会議で、日報を隠蔽することはできないし、公開するかどうかを決めることはできない。

このニュースの中で、NHKにしろ、民放にしろ、二月六日に日報がすべて公表されているということに触れていないのは、視聴者に誤解を与える。

二月十五日の防衛省の会議で問題になることがあるとすれば、陸自で見つかった日報は、個人のものなのか、行政文書なのかという判断だ。

もし、日報がそれまでに見つかっていなかったら、行政文書だろうが、個人のものであろうが、陸自で見つかった文書は干天の慈雨のようなものであり、日報が見つかった、よかった、ということになっただろう。

ただし、もしそれが個人の文書だったら、それが改ざんされていないかということが問題になるだろうが。

しかし、それまでに日報が見つかって公表もされているのだから、問題は陸自で見つかった文書が個人の文書なのか、(その場合、特に問題はない)、行政文書なのか、(この場合、最初に開示請求をされたときに、探し方が足りなかった)ということになる。

個人の文書ならば、それが見つかったことを公表する必要もないだろうが、行政文書ならば、当初の探し方が足らなかったことが明らかになったことを公表する必要がある。

防衛省は、見つかった日報が個人の文書だと考え、特に発表の必要がないと考えた。

しかし、日報に関してはそれまでいろいろとあったわけだから、自分たちで判断するだけではなく、内閣府の公文書課や国立公文書館に、きちんとした判断を仰ぐべきだった。それがこの騒動の本質ではないか。

こうした説明もなく、あたかも日報を隠蔽する決定が行われたかのような報道は、間違っていないか。

(2017年7月20日「衆議院議員 河野太郎公式サイト」より転載)