最初なので少しだけ自己紹介をさせていただきたい。筆者は、埼玉県のある大学の教員である。大学院では経営学を専攻し、一応「経営情報論」という分野の専門家ということになっている。ただ正直に白状すると、専門家を名乗りつつも、「経営情報論」というのが何なのか、いまだによく分かっていない。
では何をやっているのかというと、ある種の技術と、それが組織や社会に与える影響をおもに研究している。そこで、今度は「ある種の技術」というのはいったい何だという話になるのだが、それをこれから本欄で少しずつお話していくことにしたい。ちなみに、今ではほとんど忘れ去られているものの、おそらく20世紀に我々が持ち得た最も透徹した社会科学者の一人であるイシエル・デ・ソラ・プール(1917-1984)は、それを「自由の(ための)テクノロジー(Technologies of Freedom)」と呼んだ。
さて、筆者がこのところ特に関心を持っている分野がいくつかあるのだが、その一つが「オープンデータ」である。とりあえず今回はその話をしよう。
オープンデータとは、ようするに、さまざまなデータを公開して誰でも自由に使えるようにしましょう、という運動である。主たる目標は、日本を含む各国の政府や公共機関、場合によっては企業が大量に収集し、抱え込んでいるデータだ。
オープンデータ運動に先行してオープンソース運動というものがあった。筆者はこれにも15年ほど関わっている(厳密に言えば、さらに先行してフリーソフトウェア運動というものもあったのだが、これについては回を改めてじっくりとお話ししたい)。これは簡単に言うと、データではなくコンピュータ・プログラムのソースコード(設計図)を公開し、誰でも自由に使えるようにしましょう、というものだった。
かつて、というのはだいたい20年くらい前までの話だが、良質なプログラムは貴重品だった。高価なのは措くとしても、自由にコピーしたり、友だちと共有したり、改良を加えたりすることができない。しかも、良質なプログラムのソースコードが入手できる機会は、さらに輪をかけて限られていた。プログラミングの能力向上には、結局のところ優れた先達が書いたソースコードを読んで真似するのが一番なのだが、その道は、恵まれたごく少数以外には閉ざされていたということになる。
筆者は現在30代なのだが、おそらくこうした「不自由な」世界で育った最後の世代に属する。というのも、今ではこうした状況は一変したからだ。今は、良質で、しかも実際に現実の世界で活用されているプログラムのソースコードが容易に手に入る。スマートフォンや家電でも使われているLinuxカーネルはその一例だ。筆者のおおざっぱな推計では、1996年と比べて、2013年現在のオープンソース・ソフトウェアの総数はざっと80倍に達している。おそらく実際にはそれ以上だろう。15年の時を経て、今やオープンソースのほうがスタンダードになったのだ。
コンピュータは、ハードウェアとソフトウェアから成るとよく言われる。ソフトウェアはプログラムとデータから成る。近年のハードウェアの性能進歩は言を俟たない。プログラムも、オープンソースのものが膨大にある。足りないのはもはやプログラムではない。データだ。良質で大規模なデータさえあれば、できること、分かること、示せることが飛躍的に広がりつつある。オープンデータは、この欠落を埋めうるミッシング・ピースなのだ。
データがオープンであることの必要性には、もう一つの含意もある。ハードウェアとプログラムが潤沢となった現在、データの価値は相対的に上がっている。かつてはプログラムが貴重だったので、プログラムを握る主体が強大な権力を行使することができた。かつてのマイクロソフトがその好例だ。しかし今後は、データを握る主体こそが、強力な権力を行使することになるだろう。この意味でも、オープンデータの重要性はこれまでになく高まっている。オープンであることは、私たちが自由を確保するための大前提に他ならないのである。