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第二次世界大戦後、蔣介石率いる国民党との「国共内戦」に勝利した中国共産党の毛沢東は、1949年10月に中華人民共和国を建国。1958年には「15年でイギリスに追いつく」を合言葉に、さらに発展した社会主義国家建設を目指す「大躍進」政策を展開した。しかし、あまりに工業・農業の成長を急ぎすぎたあまり、約2000万人の餓死者を生み出す大失敗に終わった。毛沢東は59年に国家主席を辞任し、権力を失った。
しかし、党主席にとどまった毛沢東は66年、当時の政府中枢にいた劉少奇や鄧小平らを、資本主義の復活を図る「走資派」「実権派」として批判。「プロレタリア文化大革命」と称する権力奪回闘争を開始した。毛沢東を支持する「紅衛兵」と呼ばれる学生らは、「造反有理」のスローガンを掲げ、毛沢東を批判する党幹部や知識人などを徹底的に吊るし上げた。国家主席の劉少奇は失脚に追い込まれ、鄧小平も政治局常務委員を解任され、一党員に落とされた。文化大革命では、毛沢東の個人崇拝や文化遺産の破壊も推し進められた。
こうして毛沢東は復権を果たし、文化大革命は収束に向かうかと思われた。しかし、文化大革命の継続を唱えて実権を掌握しようとした毛沢東夫人の江青ら「四人組」が台頭。反対派を抑圧し、混乱は続いた。
71年、後継者とみられた林彪が失脚し、76年1月には首相の周恩来が死去。同年6月に毛沢東も死去すると、首相の華国鋒は四人組を逮捕。こうして、中国の政治・経済・社会を大混乱に陥れた10年にわたる文化大革命は終結した。中国共産党は被害の実態を公表していないが、約1億人が被害を受け、死者は1000万人にのぼるという説もある。
1981年、中国共産党は「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」を採択し、文化大革命は完全な誤りだったと決議した。その一方で、当事者だった毛沢東については、「10年にわたる文化大革命で重大な誤りを犯したとはいえ、その全生涯からみると、中国革命に対する功績は過ちをはるかにしのいでいる」と定義した。
中国国内では、今も文化大革命に関する自由な議論は許されていないという。その一方で、習近平国家主席ら現在の共産党中枢は、メディアに「絶対忠誠」を求めるなど強権的な政治手法を取っている。また今月、人民大会堂で文化大革命期の歌を歌うアイドルが公演し、習近平国家主席を讃えるなど、個人崇拝を思わせる動きも見られ、「文革時代に空気が似てきている」と懸念する声もある。