昨夏から今春にかけて、マントン&ウェルチ『キューバ危機:ミラー・イメージングの罠』(中央公論新社)の翻訳を手がける機会をいただいた。
研究室に、共訳者にしてお師匠である先生とともに二人閉じこもり、こうべを突き合わせて、何日もかけて綿密に訳文を検討する。僕の案が退けられたり、逆に先生の案を退けたり。もちろん、前者のほうが圧倒的に多かった。ひらめき、論理、エビデンス。僕にはすべてが足りなかった。
死の際でみるという人生の走馬灯に必ずや出てくるであろう、(僕にとっては)ビターきわまった訳文検討会も、一日4時間くらいが脳みその限界である。疲れてくると、互いにイライラも増してくる。そんなときは、三田の小山を下りたところにあるそば屋で、二人、麺をすすった。
「reluctant to ~」は「しぶしぶ〜する」でもよいか。「paternalistic」は定訳を外して「保護者づらした」、いや「父親づらした」でどうだろう......。ずるっ、ずるっ。オノマトペは多用するとこざかしい......。ぼーっと徒然思い流した。
イタリアのことわざは、「翻訳者は裏切り者(Traduttore, traditore)」という。どれだけがんばって翻訳に励んでも、原文の意味は伝えきれないもの。だからといって、投げやりになってもつまらない。原著者、そこから自立したテクスト、読者、共訳者、そして自己とのペンタゴンな対話を図りつつ、なるだけ誠意とまごころをもって、丁重に裏切りたい。
もちろん、読者が原語を学ばなくなるから訳書なんて少ないほうがいい、との声もアカデミズムには根強くある。事実、翻訳の仕事は、学問上の業績としては格下にみられがちである。
それでも、江戸・明治来、着々と積みかさねてきた翻訳の文化や伝統をご破算にするのはどだい無理だろう。この国では、「翻訳」に「道」をつけて語られるような素地があるし(何ごとにも「道」をつけて精神性を尊重しすぎるのもどうかと思うが)、翻訳指南書もありすぎるほどだ。
読者もまた、訳文の豊富「すぎる」バリエーション(競作)を楽しむ準備ができている。村上春樹の新訳が話題となったチャンドラー作品は、事実上二者択一だからまだいい。キャロル『不思議の国のアリス』やテグジュペリ『星の王子さま』となると、訳書がありすぎてどれを手にとればいいか、うれしさまじりに戸惑う。
僕が専門とする政治学の分野でも、カント『永遠平和のために』をはじめ、訳書がならびたつ作品が少なくない。国際政治学の古典である、カーの『危機の二十年』は、近年待望の新訳が出た。政治学徒にとっては、原著+旧訳+新訳の学問的検討が可能な、格好の教材である。
他方、ハードボイルド翻訳の大家が、文学研究者による原著の詳細な読解を受けて、訳文を全面改訂した例もある(諏訪部功一『「マルタの鷹」講義』;ハメット、小鷹信光訳『マルタの鷹』改訳決定版)。商業出版とアカデミズムの幸福な邂逅。小鷹氏もやはり、裏切り「きれなかった」クチであろう。
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思えば、小さいころから、家では異国の言語(朝鮮半島の言語)が飛びかっていた。家族や親族では、僕だけが日本の公立校に通いとおしたから、独り仲間はずれだった。僕に聞かれたくないとき、家族は異国の言語で会話した。こすい。
だから、僕は早々と日本語に「逃げた」。この国で、日本語の授業は「国語」という。小・中・高で、ザイニチというアウトサイダーなはずの僕は忠実な「国語」学習者だった。それは、植民地期の朝鮮半島の子どもたちと、ほとんど変わらない知的態度だったろう(植民地期の痛切なる回想をふくむ、金時鐘『朝鮮と日本に生きる』を参照してほしい)。
戦後のザイニチの中には、そのことを顧みて恥じ入る者もいるが、それはケチな話である。僕は、この国を生きぬく「国語」という道具の使い方を仕込んでくれた、小・中の担任の先生にはすごく感謝している。みな女性、しかも専門は「国語」だった。野村先生、中山先生、宮崎先生、そして中村先生。
他方、「耳タコ」な説教を親族はくりかえした。敵国の言語たる日本語なんて! 要はそういうことである。ただ、共有は絶対したくなかったけれど、彼・彼女らのつまらない「民族心」なるものも、まぁわからないではなかった。
ということで、今度は英語に「逃げた」。中学生のとき、亀井英数塾で亀井先生が仕込んでくれた英語、そして都立国際高校では仁平先生のハードきわまる英語。
難解なだけの大学入試を終えると、もう英文は見たくなくなった。そこで、第二外国語のスペイン語に「逃げた」。大学に入学した2000年当時、金城一紀の『GO』という在日小説が話題になった。かといって、朝鮮半島の言語は絶対学びたくなかった。そこで、本作になぜかスペイン語の一節("No soy coreano, ni soy japonés, yo soy desarraigado.")が出てくることに触発され、安直にもスペイン語に精を出したのである。
大学と大学院を出ると、編集者になった。ブラックな版元だったため、3年経たないうちに離職して、今度はいよいよ半島に「逃げた」。27才になる手前、ソウルに留学して、ほぼゼロから韓国語を学んだ。
留学中は、これでもかと、日本語に「飢えた」。ソウル駅近くにできたばかりの「ブックオフ」に通い、日本語を求めた。2年近く、クォン先生、ファン先生、ヨプ先生の下で、韓国語も相応にマスターはした。でも、結局は日本語に回帰してきたな、と思う。かつての「異国の言語」を遅ればせながら我がものとしたとき、そう痛感した。
人間の舌のセンスは、幼少期の親(多くは料理を担当する母親)が支配するともいわれる。結局、言語においてもそれはある種当たっているのかもしれない。歴代の「国語」教師の掌中で、僕はもがいてきただけだったのかもしれない。
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とまれ、こうした言語遍歴を経て、昨年刊行された訳書『「普通」の国 日本』の一部と、くだんの『キューバ危機』の訳業にあたった。
前者は、原文は英語だが、僕の担当章は日韓関係がテーマということで、韓国にいる友人とともに韓国語資料にあたった。後者も原文は英語だが、キューバがすべての舞台なだけに、スペイン語文献にて確認事項をつぶしていった。
学問や言語の手ほどきを受ける先生に恵まれるか否かは、人生、そして翻訳を左右するかもしれない。僕は血縁にあまり恵まれなかった分、知縁には大いに恵まれたと思う。人生、とんとんである。
反知性主義もじわり広がる中、「先生」が「センセイ」と揶揄まじりに表されるようになって久しい。一人で大人になったような顔をしている人が、どれだけ多いことか。反知性主義の裏で、実はインテリと呼ばれる人ほどそうした厚顔をさらしがちではないか。個人的にはそう思っている。
翻訳とは、複数の言語が接する、緊張感あふれる境界線上の産物である。学問、そして日本語、英語、スペイン語、韓国語。ふつう、本の謝辞に語学の先生が挙がることはほとんどないし、ささやかな訳書の刊行にあたっては大げさだろうけれど、国籍を超えて、出逢ったすべての先生にめいっぱい感謝する。
最後に、家族や親族がうざったく、暑苦しかったおかげで長らく朝鮮半島の言語から「逃げ」てきた。だからこそ、複数の言語の境界を往来することができた。かつて、「北朝鮮と中国とキューバ。愛する国はこの三つ」と、これでもかと無味に教え込まれた日々がなつかしい。
戦後、あるいは「解放後」70年の佳き日、愛せといわれた国の一つを舞台とする訳書を刊行できた。
どうもありがとうございました。
*タイトルは、翻訳の際、脳みそが疲れるたび手にとり、励まされた、谷崎由依「......そしてまた文字を記していると」(『すばる』2013年4月号)をもとにした。