「帝国の慰安婦」刑事訴訟 最終陳述1

私が絶望するのは、求刑そのものではない。私が提出し説明したすべての反論資料を見ておきながら、見ていないかのように厳罰に処してほしいと言ってしまえる検事の良心の欠如、あるいは硬直に対してである。もちろんその背後にあるものは、元慰安婦の方々ではなく周辺の人々である。
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時事通信社

2016年12月20日、1年間続いた刑事裁判の結審があった。以下はその日、法廷で読んだ最終陳述の全文である。私は準備公判が進行中だった5月に反論証拠資料として1000枚余りの資料を提出している。慰安婦に関して知ることのできる証言、手記、記事などである。慰安婦問題全体が理解しやすいように、時代順、そして当事者、周辺人物、学者順ににした(資料が出てきた時期が遅かったとしても、同時代の人々の発言や彼らが見た光景順に並べて提出した。リンク資料参照刑事訴訟 公判記2)。そしてその後、『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』が、慰安婦を名誉毀損する本ではないことを証明する他の様々な資料を「参考資料」として提出した。本文で「証拠資料」「参考資料」と記述しているものは、そのように区別した2種類の資料のことである。但し、参考資料の中にも証拠資料以上に重要なものもある。例えば、元慰安婦の方との電話録音記録や映像である。

参考資料は結審までに160以上提出し、この手記を書きながら新しく言及した資料を「追加資料」とした。本文と一緒に裁判所に提出する予定である。リンクなど、まだ不備のところがあるのを承知で公開しておく。

検察はこの日、私に懲役3年を求刑した。「歴史的事実を意図的に歪曲した点、反省していない点、被害者たちの名誉を著しく毀損した点を考慮しなければならない」と述べながらのことである。

この言葉を聞いて気がついたが、検察は私の「反省」を引き出そうとしたようだ。私は刑事の全ての審問に対して反論できたが、反省の態度を示さなかったことに不満があったかもしれない。

確かに、検察と関係者は、起訴の前に調停を勧めつつ「謝罪」「韓国語削除版の廃刊」「日本語版の削除」を要求した。私を非難してきたある教授も、原告側に告訴の取り下げの仲介の役を引き受け「日本語版の廃刊」を要求してきた。そして、私が最後まで応じられないと言ったのは、日本語版の削除・絶版のみである。

しかし彼らは私に何を要求したかは言わず、私が調停で謝罪を要求したと言って、あたかも私が元慰安婦の方に謝罪を要求したかのように非難した。私が要請したのは、私の本を歪曲して告訴して全国民の非難を浴びるように仕向けた周辺の人たちの謝罪である。元慰安婦の方々を非難したり、何かを要求したりしたことは私には一度もない。

私が絶望するのは、求刑そのものではない。私が提出し説明したすべての反論資料を見ておきながら、見ていないかのように厳罰に処してほしいと言ってしまえる検事の良心の欠如、あるいは硬直に対してである。もちろんその背後にあるものは、元慰安婦の方々ではなく周辺の人々である。

この求刑は、歪曲と無知の所産である論理を検事に提供して、おうむのように代弁させた一部"知識人"たちが作ったものである。

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尊敬する裁判長、

形事裁判が始まってからもう一年になろうとしています。その間、私にも発言権を与えていただき、私の説明に耳を傾けつつ公正に進めて下さったことに対して、まず、深く感謝申し上げます。

1.故意性(犯意)があったという主張に関して――『帝国の慰安婦』を書くまで

まず、私が『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』を書くようになった経緯に対して話します。

1)私は25年前、留学が終わる頃に東京に証言をしに来られた元慰安婦の方々のためにボランティアで通訳をしたことがあります。そして白いチマチョゴリを着て泣き叫ぶ元慰安婦の方の証言を聞きながら涙した経験があります。この時から慰安婦問題はこの25年間、私の頭の中から消え去ったことはありませんでした。

帰国後は、慰安婦問題を巡っての支援活動のあり方に矛盾を感じ、また活動に加わる特別な機会もなかったため、長い間見守るだけでしたが、10年前に慰安婦問題に関する初めての本を書くまでに、水曜デモに参加したり、「ナヌムの家」を訪ねて慰安婦の方々と話をしたりしたこともあります。

2)その後2004年に、ナショナリズムを超えて日韓問題を議論する日韓有識者のグループを作ることになるのですが、私がこのグループを作るようになった最も重要な契機も、実は慰安婦問題にありました。新しい歴史教科書採択に反対する会の代表でもあった小森陽一・東京大学教授と意気投合してこの会を作りましたが、わたしが誰にも先にこの会に参加してほしいとお願いした方が、日本を代表するフェミニスト学者の上野千鶴子教授だったのも、そのためでした。

そして翌年、同じように長年、慰安婦問題解決のために先頭に立って活動してこられた和田春樹教授と上野教授をソウルに招いてシンポジウムを開きました。この時私は、この方々の話に対するコメントを、慰安婦支援団体の韓国挺身隊問題対策協議会の事務局長だった尹美香氏にお願いしました。挺身隊問題対策協議会が、和田教授が中心となって活動していたアジア女性基金を非難してきたため、両者の接点を見いだそうとしたからです(この時の内容は『東アジア歴史認識のメタヒストリー』という本に収録されています)。しかしこの時、尹美香氏はこれまでと同じ主張を繰り返すのみで、結局接点を探すことはできませんでした。

3)実は私はシンポジウムの少し前の秋に『和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島』という本を出版していました(慰安婦問題関連は第二章。参考資料98.)。挺身隊問題対策協議会の活動の問題点や、それまで知られていなかった、世間に知られているものとは異なる元慰安婦の方々の声をより多くの人々に知ってもらい、この問題をみんなで改めて考えてみないといけないと思ってのことでした。

私がこの本で強調したことは,「対立する問題を解決するためには、まず、その問題に関する正確な情報が必要。支援団体がマスコミと国民に出す情報が必ずしも正確でもなく一貫性がないので、まず正確に知ろう。そのあと議論し直したい」ということでした。

そして韓国社会は私の本をとこれといった拒否反応なしに受け入れてくれました。いくつかのメディアに書評が載り、翌年には文化観光部が選ぶ優秀教養図書に指定されたりもしました(参考資料86,87)。

4)翌年『和解のために』が日本語に翻訳されてから、日本での発言機会も多くなりました。そのたびに私は、慰安婦問題解決に日本がもう一度向き合うべきだと言いました。1995年に設立された日本のアジア女性基金は、2003年までにいくつかの国の元慰安婦の方々に日本の首相からの手紙を添えた「償い金」を渡し、医療福祉の支援をしてから、2007年に解散していました。その後、慰安婦問題への日本の関心が急激に冷めたように感じたためです。

例えば2010年、日韓併合100周年になった年に、その年にすべきことがいろいろ議論されましたが、日本政府はいうまでもなく韓国政府さえも慰安婦問題に言及しませんでした。そこで私は日本のメディアに向けてその年に「日本がすべきもっとも重要なことは慰安婦問題の解決」と書きました(参考資料59.)。

5)そして、翌年の2011年冬、やはり日本のメディアに慰安婦問題について論じた、日本の保守層と政府と支援団体に向けての文を連載し始めました(WEBRONZA 2011/12~2012/6)。2年後に韓国で先に出版された『帝国の慰安婦』には、この時連載した内容も韓国語に翻訳され収録されています。

つまり、『帝国の慰安婦』は、慰安婦問題に無関心だった日本に向けて、慰安婦問題を思い起こしてもらい、解決に乗り出すべきだと促すために書き始めた本です。しかし日本のみならず韓国でもこの問題を考え直すことが急務だと思い、結局先に出したのは韓国語版です。まさにそのために、当初は日韓両国で同時に出したかったのです。慰安婦問題解決のために長年尽力してきた日本の和田春樹教授が、私が起訴されたあと「日本で慰安婦問題を喚起させる機能がある」と言及されたことは、私の努力が無駄ではなかったということを証明します(記事)。

6)まだこの文章を連載中だった2012年春、今度は日本で、私が2005年に試みたように、この問題の解決にともに関心を持っていながら方法において意見が異なる人々を呼んで接点を探ろうとするシンポジウムがありました。私も和田教授と一緒に招待され、和田教授と似た立場から意見を述べました(参考資料162)。

このシンポジウムのタイトルが「慰安婦問題解決のために」で、主催した人たちが、韓国の挺身隊問題対策協議会で活動していた人や、早くから慰安婦問題に関心を持ち、韓国挺身隊問題対策協議会の初代代表の尹貞玉教授とも親しい女性学者だったということは、その方々が、私の立場が和田教授に近い、つまり慰安婦問題解決のために、それなりに苦心してきた人物と理解してくれたゆえのことといえます。

7)2012年春、日本が謝罪・補償の案を持ちかけたのに対して、青瓦台(大統領公邸)関係者が支援団体の反対を予想して、慰安婦の当事者はもちろん支援団体に打診さえせずに拒否したという記事を見て、私はこのままだと慰安婦問題は永遠に解決できないと考えました。そこで、韓国に向けての本を書き始め、既に書いてあった日本語の文章も翻訳して収録しました。それが1年後、2013年に発刊された『帝国の慰安婦』です。

この頃私は、サバティカルを迎えて東京にいましたが、この時、長年交流して来た数人の学者たちと、慰安婦問題解決のための議論を数回行いました。そして帰国直前に東京大学で、またもや接点を探るためのセミナーを開いたりしました。

告訴の直後に書いたように(参考45-50)、『帝国の慰安婦』における私の関心は既存の「常識」を見直して、それに基づいて「異なる解決法」があるかどうか考えることでした。その悩みを共有することを通して、慰安婦問題をめぐる韓国人の関心と理解がより深まり、より多くの人々が納得できる解決策を模索し、元慰安婦の方々を一日でも早く楽にしてあげることでした。

そして、この本での具体的な提案は、単に「元慰安婦の方々の様々な証言が、慰安婦問題とその解決のための議論から排除されている。当事者を含む日韓協議体を作り、日本と話し合おう」と言うものでした。

裁判長、

慰安婦問題を知るようになってから、この問題における私の関心と行動と執筆は全て、元慰安婦の方々のためのものでした。既存の常識への異議申し立ては、学者としての当然のことであると同時に、韓国に居ながら日本について教える日本学専門家としての義務と考えていたためでもありました。何よりも、事態を正確に知ってこそ、生産的な対話の始まりと正しい批判が可能だということが、日韓関係に関する初めての本を出した時から、私の一貫した考えでした。『帝国の慰安婦』もまた、そうした考えから書かれた本です。

2.「元慰安婦の方々を非難する日本の右翼を代弁する」という主張に対して――日本の評価

ところで原告側弁護人と検察は、私の本に、日本の責任を免罪する意図があると非難します。私の本が日本の右翼を代弁し、太平洋戦争を美化したとする虚言に加えて、慰安婦問題の解決に「害悪」になる本とまで言いました。『帝国の慰安婦』を、学生たちを動員して分析させた「ナヌムの家」の顧問弁護士は、もう10年前の本『和解のために』を持ち出し、青少年に有害な図書だとして、政府に対して10年前の「優秀教養図書」指定を取り消すよう働きかけました。

しかし支援団体が刑事告訴するまでは、『帝国の慰安婦』もまた、期待以上の好評を得ています(参考資料5-12、新聞書評など)。

日本の責任を免除しようとしていると原告側から非難されましたが、重要なのは日本で私の本がどのように受け入れられているかでしょう。結論を先に言いますと、私の本を高く評価してくれた方々は、原告側が主張するような、(日本の)責任を否定する右翼ではなく、日本の責任を誰より深く認識してきた、いわゆる「良心的」な知識人と市民です。

そのことは、まず2014年秋に日本語版が出版された時、一番先に書評を載せたメディアが、この問題に長い間、最も高い関心を払ってきた朝日新聞だということからわかります。朝日よりもっとリベラルと認められている東京新聞、そしてリベラル中道と言われる毎日新聞も書評、コラムなどを通じて肯定的に言及した事実が、そのことを証明してくれています。

そのような記事が私の本をどのように評価したのか、原告側の嘘を明らかにするため、審査評、学者と作家の書評を一部読ませて頂きます。

軍に代表される公権力によって拉致され性的奉仕を強制された多くの被害者の声に耳を傾けようとする姿勢のかげには、単純な戦時下の人権侵害とする見方よりも、植民地主義、帝国主義にまで視野を広げて問題をとらえる鋭さが隠れている。それは戦時下の人権侵害的犯罪というとらえ方よりも厳しい問いを含んでいると言わなければならない。朴裕河は過去を美化し肯定しようとする歴史修正主義者の視点とは正反対のまなざしを慰安婦被害者に注いでいるのだ。(中沢ケイ「帝国の慰安婦が問いかけるもの」、WEBRONZA 2016年1月18日・作家、法政大学教授、2014)

女性を「手段化」「モノ化」「道具化」する構造への強い批判とともに、その中で人間として生きている 人々への共感を表す。これがこの本の叙述の中核である。(田中明彦、東京大学名誉教授、アジア太平洋賞審査評、2015年11月11日付毎日新聞)(参考資料71,72)

本書の 評価すべき点は、「帝国」すなわち植民地支配の罪を全面に出したところにある と思ってます。(上野千鶴子、東京大学名誉教授、2016、「『慰安婦問題』にどう向き合うか―朴裕河氏の論著とその評価を素材に」から)

マクロ な規定性を見据えながらもミクロ的な人々の生きざまを見ていくことこそが、そこに介在 するメゾレベルの状況をつぶさに 見ていくことが植民地支配を考える視点なのではないか、そうしないと植民地支配の暴力性は本当に は見えてこないという現在の植民地研究の一つの流れを朴裕河氏はくんで いる、と私は考える。(蘭信三、上智大学教授、2016、「『慰安婦問題』にどう向き合うか―朴裕河氏の論著とその評価を素材に」から)

かつて 欧米に追随し、強者としてアジアを支配した日本は、他者を支配する西洋起源の思想を越え、国際社会を平和共存へ導く 新たな価値観を示せるか 。韓国の理解を得て挑みたいものである 。(「風知草 帝国の慰安婦再読」2015年7月27日、毎日新聞)

以上が『帝国の慰安婦』に対する日本での論評の一部です。

にもかかわらず検察と原告弁護人は、いや彼らに論旨を提供した人々は、韓国が日本の事情をあまり知らないことを利用して、事態を正反対に歪曲して伝えてきました。

彼らの言う通り、一部の保守が自分たちの主張に私の本を利用した場合もありましたが、微々たるものです。いずれの保守系新聞もこの本の書評を載せてはいませんし、賞を与えるなどというところもありませんでした。

それなのに、この本は、二つの賞の受賞が意識されたたかのように、受賞の直後に起訴されました。そしてそれを引き受けて日本の代表的知識人たちが起訴反対声明を出すと、早くも『和解のために』の日本語版が出た後の2007年頃から私を非難してきた在日朝鮮人研究者や、日本人を含む支援者側の研究者や活動家たちが私の本を歪曲しつつ激しい非難を始めました。

するとこれを見かねた日本の知識人たちが、以下のように発言してくれました。

「『帝国の慰安婦』は、民族とジェンダーが錯綜する植民地支配という大きな枠組みで、国家責任を問う道を開いた」(加納実紀代、敬和学園大学教授、2016、「『慰安婦問題』にどう向き合うか―朴裕河氏の論著とその評価を素材に」から)

「こうした構造にこそ、植民地支配と戦争の大きな罪、そして女性の悲哀があったと私は思う。私は朴裕河氏が「同

志的関係」という言葉にこめた意味をそう解釈した」(若宮啓文、元朝日新聞主筆、2016、「『慰安婦問題』にどう向き合うか―朴裕河氏の論著とその評価を素材に」から)

「「日本の兔罪を意図するものではないことは、先入観を抜きに全体を読みさえすれば、誤解が生じるはずはない 。それうぃ「日本の兔罪」に道を開く妥協的は書物だと理解する 一部の 読みは、明らかに「誤読」であり、同書を「悪用」することだ」

こうした側面の強調は、「植民地支配」のより深い理解に道を拓きはしても、「日本の兔罪」を導き出すようなものでは ない」(西成彦、立命館大学教授、 「『慰安婦問題』にどう向き合うか―朴裕河氏の論著とその評価を素材に」から)

などです。こうした評価が、『帝国の慰安婦』の日本への批判をきちんと受け止めてのものであることは言うまでもありません。まさに、その部分こそが私の本が日本で評価された理由と私は考えます。

そして慰安婦問題解決の過程において、私の本がどのように位置づけられるべきかを論文に書いてくれた学者もいます(参考資料69,108)。また、これら以外にも同じような視点で『帝国の慰安婦』を支持する文章を集めた本が来年春に出版されると聞いています。

私の本は元慰安婦の方を「名誉毀損する本ではない」とする、日本の知識人たちの起訴反対声明に、河野談話を発表した河野洋平・元官房長官、村山談話を発表した村山富市・元首相、そして日本の「良心的」知識人を代表するノーベル賞作家の大江健三郎氏も賛同してくれました(参考資料73-1,2)。それは、その方たちが私の本を"正しく"読んでくれたからです。

告訴直後、まだ本が日本語に翻訳される前に自国を批判してきた日本の代表的思想家、柄谷行人さんが私に関するメッセージを仮処分の法廷に送ってくれたことも(参考資料140)、私のこれまでの仕事をよく理解し、認めてくれたゆえのことと思います。

それなのに原告側弁護人と検察は、私が日本の責任を否定して兔罪しようしていると主張します。もちろん彼らが、本事件の論点と関係がないにもかかわらずそうした主張を繰り返す目的は、朴裕河は日本からお金をもらって元慰安婦の方々を懐柔するような人物といった認識を拡散させたように、私に対する世間の評判を悪くして、私に元慰安婦の方々を名誉毀損するような「故意」がある人物と見せるためです。

3.慰安婦の名誉を毀損する本であるという主張に対して――韓国の評価

裁判長、しかし私の本が決して元慰安婦の方々を名誉毀損する本ではありえないことは、本を書くまでの経過と、そして2013年、発刊直後の韓国社会の反応、先に申し上げた2014年のシンポジウムについての韓国マスコミの反応だけでも十分に理解して下さると思います。

そして告発後も、すべてを把握できないほど多い、市民、知識人からの嘆願書、声明、書評、フェイスブックでの発言、有力雑誌の特集や記事、そして真実を伝えようとした記者たちの書評と記事が証明してくれています(参考資料4-34,36-44,66-2,73-1,2,75,76-1-10,79-85,91-95,124-139,142-155.)

訴訟の問題を見抜いた市民たちが集まり、支持と応援のためのグループを作り、フェイスブックに「帝国の慰安婦、法廷から広場へ」というページを開設して私をめぐる誤解を解くために努力してくれました。このページに、現在まで2000人近い人々が呼応してくれています。また昨日、私のための嘆願書が、ある若い評論家によって新たに作成され、賛同者の署名を募っている最中です。数は決して多くありませんが、私はそのような方々がいるからこそ、この国を去りたいとは考えずに、耐えてきました。

裁判長、

私のための嘆願や、メディアに記事を書いてくれた方々が主にテキストを読み分析し、書くことを仕事とする韓国文学研究者、評論家、作家であるということに注目して下さい。

多くの人々が読んでくれることを願って一般書として書きましたが、実は私の本は内容も文体も単純ではありません。したがって重要なことは、事実か否か以前に、本で私が何を言っているかを正確に把握することです。私たちはそれを読解力と言います。その読解力で韓国でも指折り数えられるほど優れた方々が、私の本を正確に読んで下さり、支持してくれました。

原告側弁護人と検察は私に名誉毀損の「意図」があるかのように疑って本を歪曲しましたが、私の本が彼らの言うような本であったなら、発刊直後にそのまま無視されたか、メディアが彼らより先に非難したはずです。

告訴後はもちろん、告訴前に出た批判に対しても、私はもうそのほとんどに答えています。(イ・ジェスン、「若い学者」たち、鄭栄桓、「帝国の弁護人」著者に対する反論。参考資料62-1-4,102-105.106,110、リンク)。支援団体だけではなく学者さえもどのような嘘をついたのか、多読家としても著名なある作家と私が反論した資料を読んで下さい(参考資料110,132)。まだメモ程度の文もありますが、彼らがどのように曲解しているのかお分かりになると思います。

4. 異なる声の抑圧――告発理由

ところで、原告側代理人はなぜ発刊後10ヶ月もの間沈黙していて、突然告訴をしたのでしょうか?

その直接の理由は、二つあります。一つは慰安婦の方の声を世の中に伝えるために有志とともに開いた2014年春のシンポジウムです。そして、告訴を前倒ししたのは、本を出した後、私がナヌムの家に暮らしている方をはじめとした慰安婦の方々の中で最も親しくしていた方が亡くなったからだと思います。実際に告訴状には、『和解のために』と、シンポジウムについて言及しながら、朴裕河の今後の活動を阻止しなくてはいけないと書いてありました。(参考資料

彼らは私が慰安婦の方々と会うのを阻止したかったのです。彼らが本の仮処分のみならず、慰安婦の方々への接近禁止の仮処分まで申し立てた理由はそこにあります。そのように慰安婦の方々を独占したにもかかわらず、彼らは私の本に生前の慰安婦の方々の声が存在せず、空しい本だと主張します。

しかし、私が本を書く期間に慰安婦の方に会わなかったのは、慰安婦の方の証言が、時間が経つにつれて初期の頃と変わることがあったため、以前に出された証言集などが現在の証言よりも事態の把握に役立つと考えたからです。また、日韓関係が日に日に険悪になり、慰安婦の方々がこの世を去っていく中、一日でも早く本を世に送り出し、再び議論しなければ慰安婦問題は解決されないと思ったからでもあります。もちろん、それ以前に、昔会った方々との対話は私の中にしっかり残っていました。

本を出してから、慰安婦の方々に会い始めたのは、謝罪と補償について慰安婦の方がどのような考えを持っているのか直接聞いてみたかったからです。しかし、連絡先を簡単に知ることは不可能であり、挺身隊対策協議会の水曜デモに出てくる方々たちは一般人の接近が徹底的に遮断されていました。そのような制限があったため、会うことができたのは結局数人だけですが、会った方々は、私自身が驚くほど、本に書いた支援団体への批判が、他でもない慰安婦の方々の考えでもあったとことを教えてくれました。

一人の慰安婦の方は私にこのようにおっしゃいました。

「日本が本当にやる気があれば、慰安婦たちに直接謝罪して、慰安婦たちに直接お金をくれないと。なぜ、挺対協を通して」進めるのかと言いながら、「立法とかいうけど、なんのことだ...そんなものは必要ない。慰安婦たちにこう、直接、私たち、住所もあるし、電話番号もあるでしょう。それを教えてあげて」、「この方法で準備したから受け取りたい慰安婦の方たちは受け取ってください」とすれば、「受け取らない人がいたとしてこれで終了ですといえば、みんなもらうでしょう。ぜひ、そうなるようにしてください」とおっしゃいました。(参考資料65、ウ・ヨンジェさんの映像)

また別の方は、アジア女性基金についても知っているか、日本のどんな謝罪と補償を望むのか、法的責任について知っているかを尋ねると、「法的とかそういうのは、私達はわからない、それよりもまずは補償してくれれば」いいとおっしゃいました。(ハ・ジョムヨンさん、2014年シンポジウム映像、参考資料166)

要するに、20年以上支援団体が「被害者=慰安婦の方の考え」だとしながら主張してきた、さらに検察が本事件の争点とは何の関係もないのに私が否定したと批判してきた、日本の「法的責任」について、まったく認知していない方が少なくなかったということです。「朴裕河が日本から20億ウォンをもらってくれると言った」との偽証をしたユ・ヒナムさんでさえ、本当は私に、挺対協を批判しながら、補償さえしてくれればいいのにとおっしゃいました。

それで私はそのような声を世に送り出すことにしたのです。先に話した、2014年4月末に開いた「慰安婦問題 第三の声」というタイトルのシンポジウムでのことです。(参考資料35、映像資料追加)

日本から和田春樹教授、釜山在住の支援団体長、そして私が報告をしたこのシンポジウムは、実は私が費用を負担したものでした。

もちろん、わたしにはお金がありあまっているわけではありません。しかし、必要性を感じたので、個人的には大きな負担でしたが、葬られた慰安婦の方々の声が世の中に伝われば、その声を聞いた人たちが再び議論を始めてくれるだろうと考えたからです。そして期待以上に、初めて公的な場に出た「異なる」声に、日韓両国のメディアは大きく注目してくれました。(記事

しかし、この時の映像を見るとわかりますが、ここに出てきた慰安婦の方々は全て顔をモザイク処理し、声も変えています。それはもちろん、その方たちが、自分が誰なのか知られるのを恐れたためです。

どうしてそのようなことが起きなければならなかったのでしょう?なぜ、彼女達は自分の考えを、日本への抗議デモに出てくる他の方のように堂々と顔を出して話せなかったのでしょう?

もちろん私たちはその理由を知っています。そのような発言が支援団体によって禁止されていたからです。慰安婦の方々の恐怖は、正確に言えば、禁じられていたことを破った時に不利益を被ることに対してのものであるのは言うまでもないでしょう。

裁判長、

6ヶ月間にわたる通話記録ですので、長いですが、参考資料として提出したペ・チュニさんの録音記録を読んでいただきたくお願いします(参考資料77)。私と電話で話す時、ペさんが何度も、スタッフが隠れて聞いていないかを確認し、気にしている様子も確認できるはずです。

私がこのような話をするのは、私に慰安婦の方を批判しようとする故意のようなものがある理由がないと申し上げたいからですが、後でお話しするように、慰安婦の方もまた、この問題に関して自由には発言できないという事実を知ることこそが、この告訴事態に対する正しい判断を可能にするものと考えるからです。

支援団体関係者が外部流出を止めようとしたのは、謝罪と補償についての慰安婦の方たちの考えだけではありません。支援団体が長い間メディアと国民に向けて話してきたもの、すでに一つのイメージとして定着した「軍人に強制的に連れて行かれた少女」というイメージに亀裂が生じる証言こそが、彼らが私を告訴までしながら阻止しようとした内容です(挺対協も告訴を検討したと聞きました)。

前の公判ですでにご覧になったように、ペ・チュニさんは、動員状況と慰安所での生活と朝鮮人慰安婦について、「強制連行はなかったと思う。慰安婦は軍人を世話する者だった。かっぽう着を着て、軍人のための千人針をもらった。日本を許したいが、それを話すことはできない」とおっしゃいました。(参考資料4他)

そして、早くに両親を亡くして祖母と暮らしていたが、職業紹介所に行ったと言いました(参考資料77)。そして、「日本政府は絶対にそのようなことをやっていない」、「日本人が捕まえて行ったというようなことはない」(参考資料77、90ページ)とまでおっしゃったのです。あまりにも確信に満ちた発言だったので、かえって私の方が、他にいろいろなケースがあるのでは?と話したほどです。

慰安婦動員に詐欺的な手法が多く使われたということは、周知の事実です。しかし、だましたのは日本軍ではない、業者とさらに職業紹介所でもあったということが提出した証言資料に出ています。それで当時の植民地警察も問題視して、女性がだまされて売られることがないよう取り締まったのです。(証拠資料3-1)

さらに、彼らの言う「生存中の慰安婦」の方々が暮らすナヌムの家の、別の方の口述録を見ると、これは原告側が提出した資料ですが、いわゆる「軍人が強制連行」したのは一人もいません。イ・オクソンさんは見ず知らずの朝鮮人による拉致、キム・グンジャさんは養父による人身売買、キム・スンオクさんは父親が勧めた人身売買、カン・イルチュルさんは義兄による「報国隊」の名の下で行ったケース、パク・オクソンさんは自ら行きだまされたケースです(証拠資料50ほか)。カン・イルチュルさんが「報国隊」に行ったと話したのは、カンさんをめぐる動員が募集当時からすでに「愛国」の枠組みの中でのものだったことを教えてくれます。

裁判長、私が『帝国の慰安婦』を通じて試したのは、そのような方々、自分の体験をあるがままに話すことができなかった、あるいは話したけれども忘れられた声を、ただ復元し、世の中の人々が聞くことができる空間へ送り出すことでした。

もちろん、そのような声だけが本当の真実だと主張するためではありません。慰安婦の方々をめぐる問題なのに、慰安婦問題が、当事者の一部を排除して進められる状況を見ながら、意図的か否かにかかわらず、沈黙してきた方の声も含めて一度は聞かなくてはならないと思ったのです。そして、当事者間の考えが違うなら、周囲の人ももう一度考えてみよう、ただそれだけでした。先のシンポジウムでもそのような提案を具体的にしました。

そして、私の気持がどういうものだったのか、ペ・チュニさんは正確に分かってくれました。私は結局その方を世の中に堂々と招いてあげることができませんでしたが、そんな私に「先生の気持は分かっているよ」(資料77、55ページ)「世話になってばかりだ」(同資料68ページ)と話してくださったのです。そして、その言葉に私は慰められながらも、深い申し訳なさに陥るのです。(参考資料113-118、リンク

しかし、それ以後、私はもうそのような活動を続けることはできませんでした。私と最も緊密な対話を交わし、シンポジウムにも映像で声を届けてくださったペ・チュニさんが、シンポジウム後1ヶ月あまりで亡くなり、私もまたそれからわずか1週間後に訴えられたからです。