通称「ダラプリム」と呼ばれる、62年前に開発された薬剤をご存じでしょうか。これは妊婦が感染すると死産や流産を、あるいは免疫力が低下しているエイズ患者や一部のがん患者などが感染すると重篤な脳症から場合によっては死に至るというトキソプラズマ症や、高熱や頭痛を引き起こす感染症であるマラリアの治療薬として利用されています。
昨年9月、その薬剤に関するニュースが全米の注目を集めました。米製薬会社「チューリング医薬品(Turing Pharmaceuticals)」の32歳のCEO(最高経営責任者)マーチン・シュクレリ氏が同年8月、ダラプリムの製造販売権を買収し、なんと、一晩で薬価を1錠13.50ドル(約1620円)から750ドル(約9万円)へ、実に55倍以上も引き上げたのです。米メディアはシュクレリ氏を「米国で最も嫌われる男」と呼んだほどでした。
ところが、元々がヘッジファンドマネージャーであったシュクレリ氏は、人々の注目を浴びたがる究極のナルシストとも言われ、傲慢な態度でテレビに出演したりソーシャルメディアに情報を発信したことで、皮肉にも、連邦捜査局(FBI)や証券取引委員会(SEC)の調査のターゲットになりました。その結果、昨年末の12月17日、彼が以前所有していた会社が「ポンジ・スキーム」と呼ばれる投資詐欺を行っていた容疑で逮捕されました。その事件が契機となり、再び米国で薬価高騰の問題に関心が集まっているのです。
製薬会社が自由に薬価を吊り上げ
2003年、米国の連邦法として定められた法律「メディケア処方薬剤改善、近代化法」は、製薬会社に2つの大きな利益をもたらしました。
1つ目は、米国の高齢者および障害者向けの公的医療保険制度であるメディケアによって、アメリカ食品医薬品局(FDA)で承認されたすべての抗がん剤の治療費を公的保険でカバーしなければならなくなったことに起因します。しかも、ほとんどの州の民間保険会社も、メディケアに準拠します。つまり、製薬会社にとっては薬剤の販売チャンスが飛躍的に増大することになりました。
2つ目は、米国では政府が薬価について製薬会社を規制できないことになりました。つまり、製薬会社が自由に薬価を設定できるのです。
この2点によって、製薬会社が、古い薬でも新しい薬でも価格を思うままコントロールできる環境が生み出されました。すなわち、シュクレリ氏がダラプリムの薬価を一挙に55倍以上も上げたことは、不道徳ではあっても、政府が薬価を規制する日本を含む多くの他の国と違い、米国では全く合法なのです。
それだけに、シュクレリ氏の事件後、専門家や識者らは製薬会社への批判を強めました。たとえば、『ニューズウィーク』誌によると、クリントン政権時の労働長官で、現カリフォルニア大学バークレー校公共政策大学院教授のロバート・ライシュ氏は、「シュクレリ氏のやったこと(薬価の大幅値上げ)は、巨大製薬会社がずっとやってきたことだ」と指摘しています。
これに対し、製薬会社やバイオ企業などの業界団体である「米国研究製薬工業協会」(Pharmaceutical Research and Manufacturers of America:PhRMA)は、シュクレリ氏は薬の開発をしているわけではなく、古い薬の製造販売権を買収して薬価を上げただけで、製薬会社ではなく投資家である、と反論しています。
しかし、米国の製薬会社は、シュクレリ氏のように薬価を一気に55倍は上げていなくても、がんや高コレステロール血症、糖尿病などの薬価を毎年10%以上も上げています。そうした実態があるからこそ、ライシュ教授の指摘に多くの人が共感するのです。
1年で80倍以上暴騰!
一方、日本でも近年普及してきたジェネリック医薬品とは、特許が切れた新薬を他の製薬会社でも製造販売できるようになった薬剤のことです。新薬と同じ有効成分、同じ効き目でありながら、複数の製薬会社が競って販売できるため、低価格になるのが魅力です。米国のジェネリック製薬協会によると、現在米国内で処方されている薬剤の86%がジェネリック医薬品ですが、購入された総額から見ると、薬剤全体の27%にしかなりません。これはつまり、新薬の価格がいかに高額かを示しているデータです。
ところが、低価格であるはずのジェネリック医薬品についても、米国では近年、価格の上昇が問題になっています。2014年10月、米国上院議会の健康に関する小委員会メンバーが、一般的な10種類のジェネリック医薬品を調査したところ、1年間で最低でも388%、最高で8281%も価格が上昇していることが明らかになったのです。
こうした実態に対し、ハーバード大学医学部のアロン・ケッソルハイム教授らは、ジェネリック医薬品を販売する競争相手がいないため、市場を独占して薬価が上げられていると批判する論文を医学雑誌『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』(The New England Journal of Medicine:NEJM)に発表しています。
本来ならば複数社が競合することで低価格になるはずなのに、なぜ競争相手がいないのでしょうか?
仕組みはこうです。たとえば、A社が開発したB薬の特許が切れて、他の3社がジェネリック医薬品を製造販売し始めたとします。するとA社は3つの会社のジェネリックの製造権を買収し、ジェネリックの販売を止めることで競合をなくし、B薬の価格が下がることを防ぐのです。あるいは、買収したジェネリックの価格そのものを上げることもできます。
もちろん、市場の独占は米国でも違法ですが、他の会社が販売しようとしない薬(上記のケースで言えば、買収された3社以外の会社が参入しないこと)を単独で販売することは、残念ながら違法ではないのです。(つづく)
大西睦子
内科医師、米国ボストン在住、医学博士。1970年、愛知県生まれ。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、2008年4月からハーバード大学にて食事や遺伝子と病気に関する基礎研究に従事。
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(2016年1月25日フォーサイトより転載)