2011年3月11日。大震災と原発事故が起こった当時、私は近所のコンビニでアルバイトをしていた。11日当日、バイトは休み。本業(音楽ライターです)の打ち合わせで東京駅すぐ近くの高層ビル23階にいて、長周期地震動に揺られまくり、帰宅難民となり、最終的に渋谷の友人のそのまた友人の家に泊めてもらい、一睡も出来ないままに12日朝早くやっと中野区の自宅に戻った。その日はバイトが朝9時から入っていた。泊めてくれた家の人や、いっしょにいた友人らは「今日ぐらい休めば?」と言ってくれたが、店長が厳しい人だったので、地震への恐怖より店長への怖さが勝り(笑......笑い事じゃない時だけど)、「いや、休むって電話するぐらいなら行く」と言い、自宅の玄関に落ちて割れていた招き猫だけ片付けると、歩いて5分のバイト先のコンビニに大慌てで行った。
店に着いて驚いた。棚にはほとんど商品がない。
いつもきちんとした店だった。キレイに整理整頓され、どんなときも棚にはきちんと物がまっすぐ揃えて面出しされて並べられ、商品は切れることなく計算して発注がなされ、充実した品揃えを誇ってきた。なのにその朝、食品はほとんどがなくなっていた。パンもオニギリもインスタント食品も。ヨーグルトや牛乳や飲み物も。棚はすっからかん。いつもは厳しい店長も、私が一睡もしていないというと、「フライヤーの掃除だけして、終わったら帰っていいわよ」なんて言った。11日夜はなんとか帰宅してきた人たちで深夜まで次々商品が売れまくり、コロッケやから揚げなどフライヤーで作る揚げ物、それから肉まんやおでんなどが飛ぶように売れたと聞いた。フライヤーを見ると、周りに油が飛び散りまくり、油そのものも真っ黒に濁っていた。おでん鍋のまわりも揺れで相当に汁が飛び散ったらしい。こびりついた汚れがひどくて、なるほどどんな修羅場だったか分かった。
とりあえずこれだけ片付けよう。私はフライヤーの掃除を始めたが、始めるやいなや、まるでゴ~ンとゴングが鳴らされたようにして続々とお客さんがやって来た。棚にはお菓子ぐらいしかないのに、それを買う。肉まんやあんまんが飛ぶように売れた。そのうち朝の配送車がブ~ンといつもより30分遅れでやって来た。驚くことにあんな震災の中でも工場ではふだんと変わらず深夜に働く人がいたのだ! ピッと何ら問題なくキレイに作られたオニギリやサンドイッチ、お弁当が、いつもよりずっと数は少ないながらもやって来て、それを見たお客さんたちによって、棚に並べる間もなく、瞬く間に買われていく。みんなガシッといっぺんにオニギリを3つ4つわしづかみにして買う。パンも少しだけ届いたが、それも一瞬でなくなった。その後しばらくして散々騒がれた「買い占め」はこのときすでに始まっていたと言える。その日は私がコンビニでバイトした2年間で、一番忙しくて帰るどころじゃなくなった。
しかし私はそうして買い占めをしていくお客さんたちを責めようとはとても思えなかった。自分自身も「カップヌードルぐらい買っておこうか」と、いらないのに2つ3つ余計に買ったり、トイレットペーパーがなくなっていると聞くや、まだ家には十分あるのに探してあちこちを自転車で廻ったりした。あのときの物がなくなる、という恐怖は誰をも追い立てたと思う。
それに何より、オニギリやらカップ麺やらを次々買って行くお客さんたちは同時に、恐怖に怯えている人たちだった。普段は一切「ありがとう」も「これください」も言わないサラリーマンのお兄さんが、「ガスを点けるのが怖いから、カップ麺のお湯をもらいに来てもいいですか?」などと聞いてきた。お兄さんは何もお湯が本当に欲しかったんじゃないと思う。きっと単身者で、仕事も休みの週末(地震は金曜日だったのを思い出して)、1人部屋にずっといることの不安に耐えられなかったんだろう。オバさんたちは「いつも揺れてる気がするのよ」と顔をしかめ、互いに自分の親戚や知り合いの消息を話し、地震時に自分が何をしていたかを報告し合い、買い物を終えても重い袋を提げたまま、いつまでも店から帰らなかった。買い物する必要はあんまりなくても、とにかく来て、そこで話がしたかったんだ。余震もまだまだ続いていたから、その度に店員みんなでワッとお酒の棚に行って支えていると、「そんなの放って逃げなさい。怪我するじゃないか」と心配してくれるおじいさんもいた。
コンビニは買い占めの現場であると同時に、避難所も寄り合い所もない都内では、被災したみんなの心の避難所、カウンセリングの場になっていたんだ。私自身、あの非現実的な、ワケの分からない混乱した状況の中、コンビニという実に現実的な場所で働くことで自分を保っていた気がする。
今、防災対策が盛んに言われる。東京都の防災対策は緊急課題という。しかし、そのわりに、たとえば今、私の住む杉並区では児童館や老人会館のような公共の場を予算切り詰めとしてどんどん廃止しようとしている。でも、それは待った方がいい。震災のときに必要だったのは食べ物や飲み物だけじゃない。心の拠り所、人が何気なく集り、話せる場所が必要だった。不安を分かち合い、互いに慰める場所をみんなが暗に求めていた。何でもかんでも「コンビニでできます」の時代だが、そんなことまでコンビニに押し付けてはいけない。コンビニでバイトしていたことで、私は痛切にそれを感じている。今度何かがあったとき、区や都は「ここにいつでも来てください」と、心の避難所を開設すべきだ。