ネット企業はどこまでコンテンツを規制すべきなのか

米ジャーナリスト、ジェームズ・フォーリーさんの殺害映像の取り扱いを巡り、ネット企業はどこまでコンテンツを規制すべきなのか、という議論が起きている。
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米ジャーナリスト、ジェームズ・フォーリーさんの殺害映像の取り扱いを巡り、ネット企業はどこまでコンテンツを規制すべきなのか、という議論が起きている。

グーグル傘下のユーチューブは即座に映像を削除。ツイッターもこの映像に関連するアカウントの停止を表明した。

だがこれに対し、ガーディアンの特別プロジェクトエディター、ジェームズ・ボールさんや、スノーデン事件をスクープしたジャーナリストのグレン・グリーンワルドさんらが、疑問の声を上げている。

そのコンテンツ規制の線引きはどこにあるのか。そして、ネットユーザーが目にするものの選別を、グーグルやツイッター、フェイスブックに委ねるのか、と。

●アカウントの停止

過激派組織「イスラム国」による「米国へのメッセージ」と題した殺害映像がユーチューブに公開されたのは19日。

ユーチューブは、暴力的、残虐な映像の公開を禁じる利用規約に反するとして、間もなくこの映像を削除したようだ。

ただ、そのコピー映像や、そこから抜き出した画像が、他の動画サービスやツイッターなどを通じて拡散したようだ。

そこで、ツイッターのCEO、ディック・コストロさんは、20日未明、殺害映像を報じるニューヨーク・タイムズの記事へのリンクを張った、こんなツイートをしている

私たちはこの露骨な映像に関連すると判断したアカウントは積極的に停止してきたし、現在も対応中だ。よろしく。

●ちぐはぐな対応

ツイッターは、2009年6月のイラン大統領選後の混乱の中、市民の情報発信手段として活用され、サービスがイラン時間の日中に中断しないよう、サーバーの保守点検作業予定を延期した経緯もあった。

そのため、これまではコンテンツの介入には慎重で、表現の自由の保護に積極的、と見られてきた。

ところが今回は、殺害映像や画像の拡散に関わるアカウントの停止に積極的に乗り出した。

しかも、その対応がちぐはぐなものになってしまった。

タブロイド紙のニューヨーク・ポストは、黒装束の男がフォーリーさんの首にナイフをあて、殺害する直前の画像を、「殺戮者たち」との見出しで20日付けの1面のカバー写真に使用。

やはりタブロイド紙のニューヨーク・デイリー・ニュースも同じ20日付け、同じ「殺戮者たち」の見出しで、フォーリーさんの背後でナイフをかざす黒装束の男の画像を、1面のカバー写真に使用した。

両社とも、その1面カバー写真へのリンクをツイートし、拡散した。

だが、アカウントは停止されなかったようだ。

●パブリッシャーとプラットフォーム

そして話は、これらのサービスは、パブリッシャー(発行者)かプラットフォームか、という点に行き着く。

この問題は以前、「メディアとプラットフォーム――情報の責任の行方」(GQ JAPAN)という記事にまとめたことがある。

編集権を持つ新聞社や出版社などのパブリッシャーは、コンテンツへの責任を負うが、情報の配布者にあたるプラットフォームは、コンテンツの内容に直接関与することはないため、その責任は限定的、と考えられてきた。

具体的には、名誉毀損やプライバシー侵害の明確な疑いがあるコンテンツについて、ユーザーからの指摘などでその存在を把握した場合、などだ。

ツイッターによるフォーリーの映像と画像の取り扱いは、明らかに従来の対応から逸脱している:ユーザーからの指摘のあった当該画像を使った投稿に対処するだけでなく、自ら積極的にその他の投稿についても探しだそうとしたようだ。

ガーディアンのジェームズ・ボールさんは、そう指摘する

ツイッターがとった〝直接行動〟の判断基準は何だったのか? なぜあるユーザーは画像の共有ができて、別のユーザーは同じことを禁止されるのか?

ボールさんは、こう疑問を投げかける。

ツイッターなどのサービスは、自らをプラットフォームと位置づけてきた。

だが、今回の積極的なコンテンツ介入は、その立ち位置を〝編集判断〟へと振れさせた。

ツイッターの対応には、その前段があった。

昨年7月、英国政府が新10ポンド紙幣に19世紀の女性作家ジェーン・オースチンの肖像を採用すると発表した直後、女性の肖像採用の運動を行ってきた女性ジャーナリストや議員に対して、ツイッター上でレイプや殺害予告が続発した事件があった。

結局、脅迫の疑いで男性容疑者らが逮捕されたが、その間、ツイッターが脅迫を放置したとして、謝罪に追い込まれる事態になった。

ツイッターは、殺害画像の共有には緊急介入の必要があるが、レイプや殺害の脅迫にはその必要はないと言っているのだろうか。

ボールさんはさらに、こう述べている。

もしツイッターが、限定的にであれ編集判断を行う、と決めたのであれば、その判断基準をあらかじめ明確に表明することが不可欠だ。

●公共インフラとしての影響力

グレン・グリーンワルドさんは、自身が運営するメディア「インターセプト」で、こう述べている

ツイッターの声明が提示する問題は、人々がフォーリーの動画を目にするのがいいと思うかどうか、ということではない。正しい問いかけは、私たちが見ることができるものを決める巨大な権力を、ツイッター、フェイスブックそしてグーグルの幹部たちに行使して欲しいどうか、ということだ。

ちなみにフェイスブックは、コンテンツを意図的に調整して心理実験を行うなど、その介入ぶりが明らかになっている。

ただ、斬首などの残虐な映像の投稿については、昨年5月にいったん禁止の方針を出したが、10月になって「暴力を称賛」する文脈でなければ、その種の映像も認めるとの方針転換を行ったようだ。

今回も、ユーザーから指摘のあった殺害映像へのリンクの削除は行ったが、この事件を議論するために映像の抜粋を投稿することは認めているのだという。

民間企業がサービス内容を選別すること自体、全く合法的なことではある、と弁護士経験もあるグリーンワルドさんは言う。

だが、3億人近いユーザーがいるツイッター、12億人のユーザーがいるフェイスブック、月間ユニークユーザー10億人というグーグル傘下のユーチューブは、普通の民間企業とは同列には論じられない、と指摘する。

グローバルなコミュニケーション手段をコントロールする膨大な力を考えれば、シリコンバレーの巨大企業は、一般的な民間企業というよりは、電話会社のような公共サービスに近い存在だ。特に、アイディア、グループ形成、オピニオンへの抑圧の危険を考えた場合は。

電話会社が通信内容を選別する危険を想像せよ、とグリーンワルドさんは言う。

デジタル時代、私たちはツイッター、フェイスブック、グーグルが消去したアイディアは、公共空間から完全に消去される世界に近づいている。そして、それらの企業が成長していけば、さらにその現実味が増していくのだ。

また、こんな例を挙げる。

イスラエル人たちが、3人の少年が殺害された事件で、フェイスブックを使って〝(パレスチナへの)報復〟を要求し、反アラブの敵対感情をまき散らしているのはどうだろう:〝暴力煽動防止〟の基準に照らして抑制すべきだろうか?

ガーディアンのボールさんは、別の記事で、「イスラム国」によって虐殺されるイラクやシリアの一般市民の画像がソーシャルメディア上で広く流通しているのに、それらについては今回のような騒動にはなっていない、と言う。

フォーリーの動画をめぐる騒動と、その他の虐殺画像への無反応を見ると、我々は、白人の西洋人―しかも白人のジャーナリスト―と、そうではない人々の残虐な死に対する関心の持ち方が、偏っているのではないかと思えてくる。

●宣伝戦略への対応

「イスラム国」による殺害映像公開は、米国に対するソーシャルメディアを活用した宣伝戦略そのものだ。

リツイートや共有による拡散は、「イスラム国」の狙いに加担することになるとして、「#ISISmediaBlackout(イスラム国への報道管制)」のハッシュタグで、自制を求めるキャンペーンも広がった

ガーディアンのボールさんも、この種の映像に対するリテラシーについて、前述の記事でこう呼びかけている

それをクリックする前に、十分な自己分析をする必要がある:これを見たいのはなぜか? 何か重要なことを理解するために、それを見る必要があるのか、と。

英国では、この種の動画を共有すること自体が罪に問われかねないようだ。ロンドン警視庁がこんな声明を出したという。

英国内で過激派のコンテンツを視聴、ダウンロード、流通させることは、テロ規制法による犯罪に該当する可能性を改めてお知らせしておきます。

ただ、グリーンワルドさんは、こうも指摘している。

フォーリーの動画の残虐性からすれば、ツイッターの禁止措置を称賛するのはたやすいことだ。ただ、検閲とは、常にそんな風に機能する:まず、多様な視点を抑圧するところから始まるのだ。

巨大ネット企業が、コンテンツ介入に前のめりになる。では、どこまでやるのか。規制をするかしないかの線はどこに引くのか。

それが曖昧なままでは、表現の自由を損なう危険がある、と。

加えて、プラットフォームの立ち位置をとるネット企業自身も、ますますコンテンツへの責任を負うことになるという、自己矛盾に陥っていくことになる。

では、どこまでやるのか。

(2014年8月23日「新聞紙学的」より転載)