相手の立場になって考えよう?

表題の「相手の立場になって考えよう」というお言葉。小さい頃、誰しもどこかで聞いた標語ですよね。
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表題の

「相手の立場になって考えよう」

というお言葉。

小さい頃、誰しもどこかで聞いた標語ですよね。

「相手の立場になって考えれば、相手のことがよく分かり、相手が嫌がるようなことはしなくなるはず」ということで、道徳とかコミュニケーションのテーマにおいては、金科玉条の一つとなっています。

でも、私はこれあまり好きではないんです。

この「相手の立場になる」というやり方、過信するのはすっごく危ないと思うので。

今日はそんなお話。

相手の立場になって考えてみることで、「あの人にひどいこと言っちゃったな」とか「あの人はこうしたら喜んでくれるかな」ってピンと来ること、あると思います。

実際、多かれ少なかれ皆さんこうやってちょこちょこ「相手の立場になりながら」生きているはずで、社会生活を円滑に送る上で「相手の立場になること」が不可欠な技術であることは確かでしょう。

ですが、一方で皆さんこういう経験もないでしょうか。

「(相手の立場になって考えてみた結果)きっと喜んでくれると思ったのに、むしろ機嫌が悪くなった」

「(相手の立場になって考えてみた結果)やっぱりあの時彼がなぜそんなことをしたのか理解できない」

など。

相手の立場になろうとしたけど、何だかどうもすれ違ってしまっているようなこれらのケース。

いわば「相手の立場になること」の失敗例です。

失敗した時は反省が大事。

では、これらのケースの場合、皆さんならどう反省されますか?

こう反省される方いませんか?

――もっとしっかり相手の立場になって考えるべきだった

と。

つまり、「相手の立場になりきれてなかった」「相手の立場になるのが不十分であった」――今回失敗したのは古来から伝わる偉大な教え「相手の立場になること」が徹底できなかった自分の不徳の致す所――という感じの反省と言えるでしょうか。

ええ、そういうことも多分ありますし、一概にこの反省がダメとは言いません。

ですが、私が危ないなと思うのは、この反省だけではある種の失敗パターンを見落としてしまいかねないからです。

それは「相手の立場になること」というやり方そのものの限界に達しているケースです。

そもそも「相手の立場になる」とはどういうことでしょうか。

「相手の立場になる」というのは「相手になりきること」でしょうか?

もちろん理想としては「相手の立場になること」も「相手になりきること」を目指しているのかもしれません。

でも、やはりこれらは似て非なるものです。

なぜって、「相手の立場になる」というのは自分が相手の立場だとしたらどう思うか」「あの人の立場に立ったとしたら自分ならどうするか」などと、どうしても「自分」の要素がそこに入っているからです。

あくまで「自分」として考えている以上、これは決して相手になりきれているとは言えません。

こう言うと、そんなことはない、「自分なら」ではなくて、「あの人ならどう思うだろうか」「あの人の性格上、こういう場合どうするだろうか」という視点でもちゃんと考えていると言われる方もいるかもしれません。

でも、残念ながらそれも正確に言えば、

自分の中でのあの人のイメージからすると、こう思うはず」

「今まで交流してきた自分の経験から想定する彼の性格なら、こうするだろう」

ではないでしょうか。

そう、「あの人ならどう思うだろうか」の「あの人」は、あくまでも「自分の想像するあの人」「あの人についての自分の中での理解」であって「あの人そのもの」ではないのです。

どうしてもそこに「自分の価値観」「自分の考え方」が混在してしまうんです。

そこに居るのは相手の立場という鏡を通して見た自分の姿でしかありません。

そもそも、仮に「相手そのもの」に完全に成り代われることができたとしても、それはもはや「あなた」ではなく「あの人」なのですから、「あの人が考えている」であって「あなたが相手の立場になって考えている」にならなくなります。

ですから、どこまでいっても結局自分が考えている以上は、どんなに頑張って相手の立場になって考えたとしても、自分の価値観の影響を排除できません

だからダメと言いたいわけではありません。

ただ、この方法も完璧ではなく、そこに弱点があることは意識しておく方が良いと思うのです。

「相手の立場になって考えること」が上手く行く時というは、おそらくある程度自分の価値観と相手の価値観が似通っている場合です。

相手の価値観と自分の価値観が似通っているからこそ、自分が相手の立場になった仮定での気持ちの動きや行動の取り方の予想が合うので、この方法が上手く機能します。

逆に失敗しやすい時はどんな時でしょう。

そう、相手の価値観と自分の価値観が大幅に違う場合です。

この時、どんなに相手の立場になって考えても、それはあくまで自分の価値観を基にした想像でしかないので、予測が外れやすくなります。

ですから、このパターンの時の反省として、もっと相手の立場になって考えても、残念ながら効果は少ないのです。

言ってしまえば、「相手の立場になって考える」というのは、実は相手のことを無視しているやり方なんです。

だって、自分の中で、相手の価値観を勝手に想定し行動を予測しているわけですから。

相手が自分と違う価値観である可能性や想定外の行動をする可能性に目をつぶっているんです。

実は本当の相手の価値観に向き合っていないんです。

この方法はあくまでツーカーの仲においてまででしょう。

それより浅い関係の場合は、空気を読むことにこだわらずに、ちゃんと思っていることは言って、相手の思いも決めつけずにちゃんと聞く、そんな風にお互いの価値観を確認し合うことが本当は必要なのではないでしょうか。

それであっても、相手の価値観に近づくのは非常に難しいことではあるのですけれど、聞きもせずに想像だけするよりは多分少し違うはずです。

相手の立場にはなりきれない――その限界を知ってから、本当のコミュニケーションが始まるんじゃないかな、って私はそう思うんです。

P.S.

文字数厳しい・・・。

多分、文化が違う人と会う時に、より実感する話と思います~。

(2014年5月5日「雪見、月見、花見。」より転載)