少年院で成人式 少年から親への言葉

東京都八王子市にある多摩少年院の成人式の場に参列させていただいた。

全国各地で成人式が行われた。この時期のメディアは会場や外部で騒ぐ、マナーの悪い新成人を映し出すが、今年は違った。振袖販売・レンタル業者が新成人に振袖を届けることなく、混乱し、悲観に暮れる新成人の姿が何度も繰り返し流された。人生で一度しかない成人式だからこそ、画面に映る新成人やご家族の涙を見るのはつらいものであった。

そんな中、今年も静かにもうひとつの成人式が行われていた。本来であれば友人や知人と語らい、家族に成人となった姿を見せるはずであった。その場所が「少年院」になるとは本人もご家族も想像し得なかったのではないだろうか。

今回、筆者は東京都八王子市にある多摩少年院の成人式の場に参列させていただいた。

前方に並ぶパイプ椅子には、短い頭髪にスーツを身にまとった35名の新成人が背筋を伸ばして座っている。スマホを眺めるものも、私語をするものもいない。静寂に包まれる会場は、成人式というより卒業式のようでもあった。

この場所で成人式を迎えたことにどのような感情を抱いているのか。愛する息子の成人式を少年院で見守るご家族の心境は。そして最後部に座る在院生はどんな気持ちでこの場に座っているのだろうか。そんな私の疑問に答えてくれるかのように、式は進んだ。

誓いのことば

緊張した顔つきをした新成人はひとりずつ、壇上にあがり深くお辞儀をする。そして成人となった自分のこれまでと、これからを言葉にしていく。時間にして1分から2分ほどのスピーチが続いていく。熟慮してきたからか、練習をしてきたからかわからないが、言葉に詰まるものはほとんどいなかった。

少年院という場で迎える成人式は、自然とこれまでの20年を振り返って「贖罪」「後悔」「反省」「謝罪」の言葉から始まった。優しくしてくれた知人を裏切り、他者や友人を傷つけ、悲しみを与えてしまった家族に対する言葉。そして利己的で身勝手な行動を重ねてきた自分への猛省。

そんな過去を悔やみながら、この場所から、この成人式からどのように未来へ歩んでいくのか。それは反省と償いの人生であることの自覚と、弱かった自分の心を強くしていきたいという想い。「自覚」「仁徳」「感謝」「健全」「責任」という表現には、ここから先のありたい自分、理想の自分が描けているようにも感じられた。

会場には、保護司や教戒師、矯正教育にかかわる方々と在院生が列席しているが、彼らの誓いのことば、24時間365日寄り添う法務教官や法務技官の方々、何より目の前にいるお父さん、お母さん、そして家族に向けて決意とともに訴えられているようであった。こんな自分でも見捨てずにこの場にいてくれる親のありがたみに触れる新成人が少なくなかった。

「親孝行します」

「幸せにします」

「もう二度と悲しませません」

そんな誓いのことばをご家族はどのように受け止めたのだろうか。涙を流すおかあさん、天井を見上げるように顔をあげるおとうさんは何を想ったのであろうか。自分の子どもの成人式をこのような場で迎えることになった家族の心境を想像しながら、彼らの誓いがいつの日か現実になることを願った。

家族が映した一枚の写真

一般的な成人式では見られない場面もあった。それは在院生代表者の「お祝いの言葉」と、新成人のご家族がわが子がもっとも愛らしく映っている写真を持ち寄り、それをスライドで流した。

写真では、生まれたばかりの愛くるしい表情でこちらを見るわが子。兄弟と笑顔でピースサインをするわが子。旅行先や遊園地ではしゃぐわが子。誕生日やクリスマスという節目のイベント。そして写真の向こうで変なポーズをして親を笑わせようとするわが子。

自分の昔の写真を見たのだろうか。袖で涙をぬぐう新成人の姿があり、ハンカチを目にあてるご家族の姿があった。

ご家族が書いた息子に向けた手紙が代読される。親の事情でつらい思いをさせてごめんね。寂しい気持ちにさせてごめんね。あなたが生まれてきてくれてよかった。本当に可愛いあなたがいてくれてよかった。自分の可能性を信じて、あきらめないでいてほしい。母はずっと味方です。私の子どもに生まれてきてくれてありがとう。」(筆者が覚えている言葉を要約した)

涙を流している新成人が多くなった。ご家族も涙をこらえていなかった。在院生や列席者からも鼻をすする音が聞こえてくる。代読が終わり、また静寂の時間が訪れる。

ありがとう

新成人が起立して振り返る。目の前にはご家族が座っている。その後ろに座る在院生も起立する。新成人と在院生による合唱が始まる。選ばれたのは大橋卓弥氏の「ありがとう」であった。

両親に向けた感謝の気持ちを歌ったこの曲、特に両親に対して素直になれずに傷つけてしまった自分を愛してくれたこと。かけてくれた言葉の意味を今になって気づいたというフレーズがあり、歌うことができなくなるほど涙する新成人の姿がそこにあった。彼らの気持ちを代弁する歌であり、目の前にいる家族に面と向かっては伝えられない本心が描かれていたのかもしれない。

感動的な成人式であった。傷つけられたひと、被害者の方々のことを思えば適切な表現でないだろう。ただそこにいるおとうさん、おかあさんに、四人の子どもを持つ筆者自身を投影させてしまった。

家族の存在

式次第が終わりを迎える段階になって、ひとつのことに気が付いた。新成人の数に対して、ご家族の数が明らかに少ないのだ。家族統合が重要なテーマである矯正教育において、少年院に入院する子どもたちの家族状況はどうなっているのだろうか。

男女で違いはあるが、「実父母」が存在する子どもが圧倒的に少ない。シングルマザー家庭が40%を超えている。家族からの言葉の中にあった、親の事情でつらく、寂しい思いをさせてしまったわが子への謝罪の意味がここにあった。

母子家庭、父子家庭、実父義母、義父実母、そしてその他の保護者構成比と少年院に入院する子どもたちの間に何か関係性はあるのだろうか。むろん、彼らが犯した罪は罪として受け入れなければならない。しかし、このようなデータを見たとき、実父母以外の保護者構成となった子どもたちが生きづらさを持たざるを得ない社会になっている可能性を即座に否定することもできないのではないだろうか。

ある子どもが少年院を退院するとき、その後の支援をさせていただくため複数の職員で退院の場に伺った。そこには保護司がひとりで子どもを待っており、家族の姿はなかった。少し悲しそうな子どもの表情が、私たちの存在を見たときちょっとだけホッとしたような表情があったそうだ。

少年院で行われる成人式、そこでの「誓いのことば」。少年院で成人式を迎えた経験を持たれたひとたちは、いまどのような生活を送っているのだろうか。その誓いのことばに込められた理想は現実のものになっただろうか。