慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」)を巡る議論が続いている。そこで、ここではこの談話とその前提になる慰安婦問題について知っておきたいことを、3回に分けて書いていくことにしたい。
最初に押さえておかなければならないのは、この談話が出されたのは、1993年8月、今から20年以上も前のことだ、ということである。ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結し、日本全国が踊りに踊ったバブル経済の終焉からわずか数年後の出来事である、と言えば、わかりやすいかもしれない。
ついでに言えば、サッカーのJリーグが開始し、プロ入り2年目のイチローが震災前の神戸の2軍で、振り子打法の習得にいそしんでいた頃のことである。因みに当時の総理大臣は宮沢喜一である。
わかりやすく言えば、河野談話はそれ自身が既に過去の出来事であり、歴史上の事件である。だからこそ、この談話の意味を理解するためには、当時の状況をもう一度確認する必要がある。そもそも何故にこの談話は1993年8月に出されることになったのだろうか。
河野談話が出されるに至る経緯を理解するためには、1992年1月11日の「慰安所への軍関与示す資料」という表題の朝日新聞の報道にまでさかのぼらなければならない。ここで重要なのは、少なくとも論理的には「軍関与」=「強制連行」でもなければ、「軍関与」=「日本政府の責任」でもないにもかかわらず、何故にこの報道が重要視されたか、である。
それはこの報道の1カ月ほど前、当時官房長官を務めていた加藤紘一が「(慰安婦問題に対して)政府が関与したという資料は見つかっていない」という発言を行っていたからである。つまり、新資料の発見は、この加藤の発言を見事にひっくり返す形になったわけであり、だからこそ大きな衝撃を与えたのだ。
当時の日本政府にとって厄介だったのは、この報道が、予定されていた日韓首脳会談の開催されるわずか5日前に行われたことだった。首脳会談を前にして、突如としてこれまでの慰安婦問題を巡る前提が崩れたことにより、当時の日本政府は一種のパニックに陥った。すなわち、発言を行った加藤官房長官や渡辺美智雄外務大臣(渡辺喜美「みんなの党」党首の父親)をはじめとした、主要閣僚が「国の責任」に言及し、その勢いで首脳会談になだれ込んでしまう。
当時の毎日新聞の記事の内容にそって数えるなら、首脳会談を前後するわずか3日の間に宮沢喜一は13回も「お詫び」や「反省」を繰り返している。しかもそのうち8回はわずか22分(3分に1回以上の計算になる)の間に行われたというから、もはやほとんど会談の体をなしていない状態であったろう。首脳会談における一国の首脳の謝罪の世界記録としてギネスブックに申請してもよいのではないかと思うほどである。
重要なことは、こうしてその後作られることになる河野談話が、「既に謝罪してしまった事実」に対する「後始末」の性格を有していたことだ。そして更に問題だったのは、この時点における日本政府は、慰安婦に補償するつもりがなかったのみならず、そもそも自分たちが「何に対して謝罪しているのか」さえ明確に意識していなかったことである。
既に述べたように、この首脳会談は朝日新聞の報道からわずか5日後に開かれており、日本政府がこの首脳会談を前にして慰安婦問題に関する歴史史料を整理することなどとうてい不可能だった。状況がよくわかっていないにもかかわらず、「取りあえず謝っておけば何とかなるだろう」というのが当時の日本政府の姿勢だった、と言っても大きな間違いはないであろう。
しかしながら、謝罪を得た韓国政府は勢いづき、これまでの姿勢を一変させて日本政府にこの問題に対する法的補償を要求することになる。それまでの韓国政府は慰安婦問題についても日韓基本条約で解決済みである、という立場だったから、この出来事は、日本政府にとって青天の霹靂だった。
こうして日本政府は状況に押される形で事後処理的に調査を行い、事態の収拾を図ることになる。だが、本当に厄介なのはここからだった。なぜなら肝心の「国の(法的)責任」を認める証拠が見つからなかったのみならず、そもそもこの時点では「慰安婦問題を巡る国の(法的)責任」が何であるかさえ明確ではなかったからである。
当然のことながら、このような混乱した日本政府の対応は、韓国政府のみならず、日本社会や政治家たちの間にも深い不信感をもたらすことになる。一言で言えば、河野談話に至る道は、はじめから深い傷を負っていたのである。
(続く)
【従軍慰安婦と河野談話をめぐるABC 】
- (1)慰安婦問題は「とりあえず謝っておけばどうにかなるだろう」から始まった
- (2) 河野談話はどこで「連合国の戦後処理」を含む問題へとすり替わったのか
- (3)「強制連行の有無」は今でも重要な論点なのか